《初霜に勝る白菊》

しらきくの花をよめる 凡河内みつね

こころあてにをらはやをらむはつしものおきまとはせるしらきくのはな (277)

心あてに折らばや折らむ初霜の置き惑はせる白菊の花

「白菊の花を詠んだ  凡河内躬恒
当て推量で折るならば折ろうか。初霜が置いて私を惑わしている白菊の花は。」

「心あてに」は「折らむ」に掛かる。「折らばや」の「ば」は、接続助詞で仮定条件を表す。「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「折らむ」の「む」は、意志の助動詞「む」の連体形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「惑はせる」の「惑は」は、四段動詞「惑ふ」の未然形。「せ」は、使役の助動詞「す」の未然形。「る」は存続の助動詞「り」の連体形。
初霜が置き、庭が一変して、純白の世界になった朝、白菊は霜の白さの中に埋もれてしまっている。どこにあるのか、わからない。初霜は、白菊と白さを競い、白菊を覆い隠そうとしているかのようだ。何という白に統一された美しい庭ではないか。白菊を手折ることもはばかられる。それでも、ちょっと手折ってみようと思う。しかし、もし手折ろうとするなら、当て推量で折るしかないではないか。
この歌の主役は、白菊であることが詞書きで示されている。初霜は脇役として読まなければならない。つまり、言いたいのは、初霜の白さと見紛うばかりの白菊の白さへの感動である。初霜によって、白菊の持つ白さを再認識し、感動したと言うのである。それを言うのに、極めて複雑な内容を一首に盛り込んでいる。しかし、それでいて、調べのいい歌に仕立て上げているのはさすがである。
正岡子規はこの歌を『五たび歌よみに与ふる書』の中で次のように批判している。
「此躬恒の歌百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる氣遣無之候。・・・嘘を詠むなら全く無い事とてつもなき嘘を詠むべし、然らざれば有の儘に正直に詠むが宜しく候。・・・今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと眞面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。」
写生を提唱した子規ならではの批判である。しかし、『古今和歌集』の和歌は、あくまでも叙情詩である。感動をいかに伝えるかに重点が置かれている。その場合、写生によっていくら対象を正確に写し取っても限界がある。対象の再現に於いて、言葉は、絵や写真には叶わない。そこで、躬恒は、誇張法というレトリックを用いた。ところが、子規は、誇張法そのものは認めていても、この歌の誇張が中途半端だと批判している。しかし、誇張は大きければいいと言うものでもない。その内容にふさわしい程度がある。白菊の白さを言うのに、初霜の白さを出してきたのは、ふさわしいものと言えよう。子規の批判は当たっていない。

コメント

  1. すいわ より:

    写実に勝る表現、ありますよね。むしろその「表現」こそが言葉の持つ力であったりもします。
    百人一首の中でも私は好きな歌で、そんな風に批判されていたとは。
    せっかく咲いた白菊の上に初霜が降りる。その初霜にも勝る白菊の白。一面の白の中から私は白菊を探ぐり当てて手折ってみようか。何を頼りに?香りが導くだろうか。菊に誘われて当てずっぽうに伸ばした手の指先に菊が触れたなら、自分自身も初霜に凍えて白くなる。辺り一面、白。菊もろともに真っ白な晩秋。
    とこの歌を捉えておりました。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、詞書きがないと、焦点が絞りにくいですね。「初霜」が主役とも、秋が主役ともとれます。そのための詞書きなのですね。その他は白菊の白さを言うための脇役です。
      もちろん、写生によっても、その白さとそれへの感動は伝えられます。正岡子規なら、その難しさに負けないでそれを試みろと言いたいのでしょう。しかし、それも一つの方法です。この歌の表現法はこれはこれとして評価すべきです。
      和歌に解釈→鑑賞→創作というプロセスが含まれているなら、この歌の表現はとても優れています。だから「菊に誘われて当てずっぽうに伸ばした手の指先に菊が触れたなら、自分自身も初霜に凍えて白くなる。」という鑑賞が生まれたのです。

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