第二百三十八段  兼好の自慢話 その七 ~ハニートラップ?~

一、二月十五日、月あかき夜、うちふけて、千本の寺に詣でて、後より入りて、ひとり顔深くかくして聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝に居かかれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、すりのきたるに、なほ居寄りて、おなじ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所ざまの古き女房の、そぞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍らね」と申してやみぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より人の御覧じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、はかり給ひけるとぞ。

千本の寺:京都千本の釈迦堂。

「一、二月十五日、月が明るい夜、夜が更けて、千本の寺にお参りして、堂の後から入って、ひとり顔を深く隠して聴聞しましたところ、上品で美しい女で、姿・匂いが人とは違って優れているのが、分け入ってきて私の膝に寄り掛かるので、女の香の匂いなども私に移り香しそうなので、具合が悪いと思って、すり退いたところ、なおも座ったまますり寄って、同じ様子なので、席を立ってしまった。その後、ある御所辺りの、古く勤めている女房が、とりとめの話なさったついでに、『ひどく無粋な方でいらっしゃったと、お見下げ申し上げることがあったのです。あなたをつれないとお恨み申し上げる人があるのです。』とお言い出しなさったが、『いっこうに思い当たることがございませんが・・・。』と申し上げて話を切り上げた。この事を後で聞きましたことには、あの聴聞の夜、御局の内からある人が御覧になり私だとわかって、お付きの女房を一般客のように仕立ててお出しになって、『都合がよかったら、言葉などかけてみるのだぞ。その様子をここに帰って来て申せ。面白いだろう。』と言って、お謀りになったということだ。」

ある貴人がいたずら心に色仕掛けで兼好の反応を試してみようとした。しかし、兼好はそれには引っかからなかったという自慢話。当時、兼好は堅物の人格者として著名だったのだろう。しかし、そうなると、かえって、欠点を暴いてその化けの皮を剥がしてやろうとする者も出てくる。いかに堅物の人格者でも、男であれば、いい女には弱いものだ。誰にでも出来心、浮気心はある。兼好にもそれがあるはずだと試された。引っかかれば、いい話の種になると考えたのだ。ところが、兼好は、自分がそんなに女にモテるはずがないと、身の程を心得ていたのだろう。ならば、この女の行為は不自然である。何か企みがあるに違いないと見抜いてしまった。往々にして、男は異性に関して自惚れる傾向がある。冷静に考えれば変だと思うことでも、いい女に言い寄られると、自分に都合よく受け取ってしまいがちだ。その点、兼好はさすがだ。このエピソードも自慢するだけのことはある。ただ、ある人に兼好を誘惑させられた女房は、自分の魅力を退けられてがっかりしたことだろう。「無下に色なき人」とぼやく気持ちがわからないでもない。

コメント

  1. すいわ より:

    悪趣味な悪戯ですね。罠にはまらず良かった。引っ掛けることが出来ずに帰った女房、「お前の手際が悪いからだ」とかなんとか意地悪されていそう。黒幕は自分では手を下さず、でも作戦の失敗が口惜しかったのでしょうね、兼好にわざわざ声を掛けて嫌味を言って馬脚を現している所がなんとも浅はかで卑しい。自慢の形でやり込めていて胸がすきます。

    • 山川 信一 より:

      誘惑に失敗した女房としては、「無下に色なき人におはしけり」と言うしかありませんね。自分を否定したくないから。その言葉が回り回って「その後、ある御所ざまの古き女房」の耳に入ったのでしょう。ことを仕掛けた貴人はまた別の人でしょう。それにしても、当時の貴族の日常は気楽なものですね。

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