第二百三十五段  空っぽの効用

 主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気にせかれねば、所得顔(ところえがお)に入り棲み、木霊などいふけしからぬかたちも、あらはるるものなり。又、鏡には色・かたちなき故に、万の影来りてうつる。鏡に色・かたちあらましかば、うつらざらまし。虚空よく物をいる。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸のうちに、若干(そこばく)のことは入り来らざらまし。

「あるじがいる家には、何の関係もない人が、勝手に入ってくることがない。あるじがいない所には、通行人が無闇に出入りし、狐・フクロウような物も、人気に妨げられないので、得意顔で入って棲み、こだまなどという異様な形も現れるものである。また、鏡には色や形が無いために、全ての映像がやって来て映る。もし、鏡に色や形が有ったとしたら、映らないだろう。空間はよく物を容れる。我々の心にいろいろな思いが勝手気ままに来て浮かぶのも、心というものが空っぽであるからだろうか。もし心にあるじが有るとしたら、胸のうちに、多くのことは入って来ないだろう。」

空家・鏡・虚空を例にとり、心のあり方を説いている。空家・鏡・虚空は、いずれも空っぽなので、どんな物でも容れることができる。それと同じように、心も空っぽだと雑念が次々に入ってくる。しかし、それは、望ましいことではない。そうならないためには、心も「あるじ」を持つべきだ。では、心の「あるじ」とは何か。それは、志である。志を持っていれば、それに沿うものだけが入ることを許される。雑念に支配されることがない。人は志あってこそ、正しく生きられる。
なるほど、もっともな考えではある。志を遂げるに越したいことはない。志を持って生きるのは正しい。しかし、この考えは一面的である。むしろ心は勝手気ままな状態に置いておいた方がいい面もある。たとえば、物事を自由に柔軟に捉えることができ、心が硬直化せず、思いがけず、面白いものが生まれる。兼好はそのことを知っていたはずだ。「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつく」ることこそ、その実践に違いない。
ならば、この段は一種の逆説である。表面的には常識を述べつつ、心の底では心を空っぽにしていることのよさを説いているのである。物事を一面的に見ることは避けたい。

コメント

  1. すいわ より:

    ものに例えて人の心の有り様を分かりやすく説明していますね。
    「無駄なものの入り込む隙を作らない」→脇目も振らずに精進しなさいとの法師への叱咤の言葉だとしたら、額面通り受け取っても良いのでしょう。
    兼好は確立した「自分」を前提としてその中身をどうするかを書いていますが、色々なものを受け入れる余地のある形に定まりのない容れ物(自分)を作る、というのはどうでしょう。その中で分解され自由に合成され新しく出来上がるものもそれはそれで魅力があるのではないかと思うのですけれど。

    • 山川 信一 より:

      兼好の意図がどこにあるのか、判然としない内容です。額面通りに受け取ってもらってもいいし、裏の意味を考えてもらってもいい、そんな書き方をしているように思えます。
      「無用の用」のような老荘思想的な考えでもあるようです。

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