はるををしみてよめる もとかた
をしめともととまらなくにはるかすみかへるみちにしたちぬとおもへは (130)
惜しめども留まらなくに春霞帰る道にし立ちぬと思へば
「春を惜しんで詠んだ 在原元方
惜しんでも留まらないのに、やはり惜しまれる。春霞が帰る道に立ってしまった思うので。」
「なくに」で切れる。「なくに」は詠嘆の気持ちを込めた接続後をつくる。ここでは、以下に「やはり惜しまれる」などが省略される言い止しの形になっている。「默説」「中断」というレトリックである。読み手の想像力に訴え、表現の完成に参加させている。「春霞」以下は、倒置になっていて、その理由が述べられている。こうして叙述の順序を入れ替えるのは、最後まで興味を持って読んでもらうためのテクニックである。「道にし」の「し」は強意の副助詞。
「春霞が帰る道にし立ちぬ」は、春霞を擬人化して、春霞がもう立たなくなることを意味している。擬人化によって春霞への親しみと名残惜しさを表しつつ、春が過ぎ去ってしまうことを表している。つまり、春が過ぎ去るということは、春霞が帰途につくことであり、惜春の情とは、親しい友人と別れる悲しみだと言うのである。ここにこの歌の発見、あるいは、新しい提案がある。
コメント
どんなに名残惜しくても、春がもうここを立ち去ろうと帰路に着いてしまったからには止めようもない。擬人化することで旅立ちを見送る別れの悲しさを共有しやすくなりますね。誰の心にも華やぎと別れ難さを残した春にどんなはなむけの言葉を贈りましょうか。
春霞を擬人化されると、なるほど春との別れとはそういうものだったのかと納得してしまいます。詩とは、そのものの正体の発見なのですね。
はなむけのことばなど考えられず、ただただ立ち尽くすばかりかも知れません。
寂しい場面ですね。
春霞が帰り支度をして立つ姿が思い浮かびました。
あ、行ってしまうのだなあ、寂しいなと、私も
ただ呆然と立ち尽くすのだろうなあと思いました。
やはり春霞の擬人化が利いていますね。私たちはみな、親しい友が旅立つのを呆然と見送るように、春が過ぎ去っていくのを受け取るのでしょう。