東宮雅院にてさくらの花のみかは水にちりてなかれけるを見てよめる すかのの高世
えたよりもあたにちりにしはななれはおちてもみつのあわとこそなれ (81)
枝よりもあだに散りにし花なれば落ちても水の泡とこそなれ
東宮雅院:東宮が学芸を修められる御殿。
みかは水:内裏の周囲につくられた溝を流れる水。
「東宮雅院で桜の花が御川水に散って流れたのを見て詠んだ 菅野高世
枝からもはかなく散ってしまった花なので、落ちても水の泡となるのだが・・・」
水面に散った花びらが連なって流れているのを「花筏」と言う。それを見て詠んだ。
桜の花は、枝からもあれ程あっけなく散ってしまうのだから、水に落ちたら泡となって消えてしまってもよさそうなものだ。それなのに、その予想に反して、花筏となって流れていくことだ。
では、作者はこの姿をどう見ているのか。いつまでも美しさを保っていて好ましいと見るのか。それとも、その姿を老醜として、泡となって消えてしまった方がいい、それでこそ桜だと見るのか。「こそなれ」からすると、それを決めかねている思いを表しているようだ。
コメント
「あたにちりにし」、桜の花の儚さを生まれてすぐに消えてしまううたかたのようだとあわれと思うそばから、桜は水面にまた結んでその存在を示している様子を見て当惑する作者。それがたった四文字「こそなれ」で表現できているところが凄いですね。ぱっと咲いてさっと散るのが「桜」の桜たるところ、惜しむからこそのと言うのであれば、花筏を良しとはしないのでしょうけれど、綺麗ですよね。当時の人も綺麗だと思ってしまうのではないでしょうか。だから頭と心のズレに当惑してしまう。
学問を修める場、「ここでの花時(学び)を終えても、形を変えてまた花咲かせていく、、」と学校の先生なら思うのでしょうか。
「頭と心のズレに当惑」、この歌の趣旨はまさにそれですね。
教師の願いは、生徒が自ら学べるようになること(自ら桜を咲かせること)です。言わば自分を必要としなくなることです。考えてみれば、寂しい仕事です。