ある強い感情

 下人は、それらの死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

 若菜先輩の番だ。ここも短い段落だけど、どんな役割を果たしているんだろう?
「ここで、臭いに触れたのはなぜ?」
「現実味を出すため。死体の臭いって強烈だって言うけど、それがゴロゴロ転がっていたんだから相当のものだよね。それに気づかないわけがない。」
「世界をリアルに捉えようとしているんだね。視覚、聴覚に続いて嗅覚でも。」
「それと、次にこの強烈な臭いを奪われたと否定している。それを上廻る驚きあることを言うためにね。」
「それが「ある強い感情」だね。だけど、なぜこんな漠然として書き方をしたの?」
「読者にそれが何なのか、知りたい気持ちにさせるため。先を読みたい気持ちにさせているんだ。」
「それもあるけど、「ある強い感情」と書いたのは、その時点では、下人自身にも、それがどんな感情かが、わかっていなかったからでもあるんじゃない?この時点では、語り手は、ほとんど下人と一体化しているから。つまり、語り手は下人の気持ちを語っているんだ。」
「死骸の腐爛した臭気」に触れてリアリティを持たせつつ、それを忘れるほどの「ある感情」と漠然と書くことで、読者の好奇心をかき立てている。すごいテクニックだ。さすが芥川龍之介だ。

コメント

  1. すいわ より:

    うっと目を細め鼻を手で掩った下人が今度は目を見開いて唖然とする。自分が目の前の死骸と同じようにぱっくり開いた口から声も出ない唖のような状態になって感覚をもぎ取られている。どうなっているの!続きは明日、、。
    芥川のおもうツボですね。

    • 山川 信一 より:

      腐乱した死体が放つ臭気はどれほどのものでしょう?思わず鼻を覆いたくなるのは当然です。
      しかし、それを忘れさせるほどの驚愕とは?物語の世界に引き込まれていきます。

  2. らん より:

    死体の強烈な臭気を想像して倒れそうです。でもそれを忘れてしまうくらい大きなことってなんなんでしょう。
    恐ろしいです。

    • 山川 信一 より:

      本当に強烈な臭気が鼻を突くような気がしてきますね。
      なのに、鼻を覆うことを忘れてしまう。それほどの驚きとは何でしょう?
      いやが上にも先が知りたくなります。

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