第二十五段 ~色好みの女~

 昔、男ありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける。
 秋の野にささわけし朝の袖よりもあはで寝る夜ぞひちまさりける
色好みなる女、返し、
 みるめなきわが身をうらとしらねばや離れなで海人の足たゆく来る

あはじ」は、〈逢うまい〉という意味(「」は打消意志)。「女の」の「」は同格の〈の〉で、〈であって〉の意。「さすがなり」は、〈そうでもないようす〉を言う。
 つまり、〈逢うまいとも言わなかった女で、そうでもない(=逢うつもりがあるとも言わない)女の元に、言ってやった〉ということ。この女は、態度をはっきりさせないのだ。男は、じらされてますます惹かれたのだろう。
〈秋の野に笹を分けて入っていった朝の袖よりも、あなたに逢わないで寝る夜の方が一層濡れ勝っています。〉(「ひち」は、〈濡れる〉の意。)
 逢えないので、毎晩泣いていますと、自分の思いを大げさに伝えることで、女心に訴えている。
色好み」は、〈風流、ものの情緒・人情がわかる〉の意。〈好色〉の意ではない。その女が返す。
みるめ」は海草の〈みるめ(海松布)〉と〈見る目〉を掛けている。「うら」は〈浦(海岸)〉と〈憂(嫌だ)・「」は接尾辞〉を掛けている。つまり、こうなる。
〈海草が無いことを知らないので、遠ざかってしまわないで(「離(か)れなで」の「」は完了の助動詞〈ぬ〉の未然形。)、漁師が足がだるくなるまでやって来るのでしょうか。それと同じように、あなたは、逢う価値が無い私の身を嫌な女だと知らないので、足繁く、足がだるくなるまでやって来るのでしょうか。〉
 これは断りの歌である。結局、女は逢わなかった。それは、男の歌に魅力が感じられなかったからだ。女が態度をはっきりさせなかったのは、男を試していたのだ。男はその試験に不合格になった。この程度の歌では、色好みの女を落とせない。だから、色好みの女は、歌で優雅に断ったのである。
 受け入れるのも歌、断るのも歌である。それが恋の作法なのである。

コメント

  1. すいわ より:

    歌を詠む力の差、歴然としていますね。「懲りずによくまぁ、おいでですこと。もう少し、お勉強なさった方が、、」と歌を返されて、男はその意を汲み取れたのでしょうか。その当時、そんな使い方はしませんでしょうけれど、「離れなで海人の」の海人が「甘ちゃんよねぇ、あなたは。」に見えてきてしまいます。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。現代の我々でもわかるのですから。歌の上手さは、相手の魅力の基準でした。確かに、愛情も誠意も教養も知性もよくわかります。
      考えてみると、なかなか優れた判断基準です。現代は何を以て判断しているのでしょうか?心もとないですね。

  2. らん より:

    袖を濡らす歌ってよく見かける気がするのですが。
    これでは平凡だってことですよね❓
    私、泣き虫の男の人は嫌いです。
    そんなびちょびちょになるまで泣いてるのは嫌ですねえ。

    • 山川 信一 より:

      泣くことで、本気さを示しているのです。こうして女心に訴えるのは、古今東西変わらないやり方です。
      イタリア歌曲の「Caro mio ben」もそんな内容です。効果のほどは期待できないのでしょうか?

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