さて、年ごろ経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、悪しと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、異心ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、
風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ
と詠みけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。
幼なじみが恋をして結婚する。少女漫画のように結ばれた二人に危機が訪れる。数年(「年ごろ」)経つうちに、女の親が亡くなる。当時は、女親の経済力に頼って生活していたので、経済の支えがなくなるつれて(「頼りなくなるままに」)、男は一緒にわびしい生活をしても(「いふかひなくて」)仕方が無いだろうと、河内の国高安の郡に、行き通うところが出来てしまった。男に別の妻ができたのだ。結婚式の挨拶で〈病める時も、健やかな時も、貧しき時も、豊かな時も〉という誓いの言葉がある。貧しき時にこそ、真実の愛が試されるのだ。しかし、実際は男女の関係もはかない。
ところが、元の女は、男が別の妻の所に行くのを〈許せない!〉と思っている様子も無く男を別の女のところに出してやった(「悪し」は〈最悪〉という意味。)ので、男は、不自然さを感じて、女も浮気している(「異心ありて」)からこうなのだろうと疑った。そこで、植え込みに隠れて、河内に行ったふりして覗いている。(身勝手に、男は自分が浮気してるのに、女の浮気は許せないのである。ただし、見方を変えれば、男はまだ元の女を愛していたためでもある。)
すると、この女はたいそう入念に化粧をし、もの思いにふけって、山の方を眺めて歌を詠む。
風が吹けば沖の白波が立つ、その「たつ」という名を持つたつた山をこの夜中にあなたは一人で越えているのでしょうか。
この歌に込められた意味は、化粧と結びつけなければならない。女はなぜこれほど入念に化粧をしたのか。「いと」「よう」と二重に強調していることに注目。女はきれいになりたい時に化粧をする。これは、時代に関係がない普遍的行為である。この女も同じである。この時、自分はきれいだって思いたかったのだ。〈男に別の妻ができたのは、貧乏になったからで、自分が愛されなくなったからじゃないだ。私はこんなにきれいなんだから〉と。浮気された女は、そう思わなくては、堪えられなかった。
そして、それだけではなく、歌を詠む。今の気持ちに形を与え、今の思いに堪えるためにだ。「風吹けば沖つ白波」は、「たつた山」の序詞である。白波が〈立つ〉から。しかし、それだけを表しているわけではない。これは女の思いを暗示している。つまり、〈幸せで平穏な夫婦生活に風が吹いて、私の心は波立っています。〉という意味だ。
「夜半にや君がひとり越ゆらむ」で、「や」の疑問は問い掛けの意味が強い。それに対して〈か〉は詠嘆の意味が強い。「君ならずしてたれかあぐべき」の「か」と比較するとよくわかる。これは〈君のためでなくて、誰のために髪上げをするのだろうか。〉という詠嘆の気持ちである。同じ反語でも、男に答えを求めていない。答えは自分で出せる。
ところが、「夜半にや君がひとり越ゆらむ」の問い掛けは、自分では答えが出せない。誰かに、たぶん、男に答えを求めている。今、男がたつた山を越えているのはそのとおりだろうけど、でも、そうは思いたくない。そんなこと信じたくないという気持ちである。
今、男がたつた山を越えているのはわかりきっている。しかし、それでもこう問い掛けなくてはいられないのだ。
〈この真夜中に愛するあなたはあの女のところに私をこの家に残してたった一人で越えているでしょうか。私はそれを信じたくありません。どうか、行かないで私のところに帰ってきてください〉男の道中の身の安全を願う?女は、誰だってそんなお人好しじゃない。
それで、男は限りなく女を愛しいと思い、(女を一層愛すようになり)河内へも行かなくなってしまった。では、男はこの歌の真意がわかったのだろうか。それとも誤解して、妻が健気に自分の身の安全を願っていると思ったのだろうか。男女は結局別の生き物だし、誤解の上に成り立つ愛もあるから。
現実には、恋愛はそういった誤解の上に成り立っていることもある。しかし、男はこの歌から女の悲しみを受け取り、自分がしていることの意味を理解したのだ。ゆえに、「限りなくかなし」と思ったのだ。歌によって男女はようやく理解し合えたのだ。これが歌の力である。
コメント
幼い頃から共に時を過ごし、良きにつけ悪しきにつけ、お互いのことが手に取るようにわかっているのでしょう。
嫉妬を露わにしないことで、寧ろ、男の関心を引くようにし、身繕いした姿を見せ、畳み掛けるように自らの心情を歌にして聞かせる(男が様子を伺っている事に気付いていますよね、きっと)。
気付いているのに気付かぬふり、大人ですね。長い付き合いであるのに、馴れ合った感の無いところが、この女の器量なのでしょう。
女の歌、『ひとり越ゆらむ』の所、君が、と言っていますが、彼女の口から『ひとり』という言葉が溢れたのを聞いた男、親を亡くした今、薄情にも自分が彼女を打ち捨てたら、本当に一人ぼっちにしてしまう、と思ったかも知れません。妻としての誇りを保つべく、美しく装った彼女の憂いに満ちた横顔は、月の光を受けて、殊更に男の心を掴んだ事でしょう。
女性から見るとそう見えるのでしょう。授業で教えた時も女の作為を感じる生徒が多く見られました。
私の読みは、それと違って、歌を主役にしたものです。浮気された女が精一杯の化粧をして、今の思いを歌にする。
そのことで何とか自分の心を保っている。そして、その歌が男の心も動かした。
歌にこめられた真実が時に奇跡を生むのだと。「風吹けば沖つ白波」を解釈するとこうなりました。
前のところでほっこりしたのにこんな展開になってしまい、びっくりしました。
貧しさから男が浮気をしてしまったんですね。なんてやつなんでしょう。
男をパンチしてやりたくなりました。ひどい男だなあ。
それでも女の人は男を恨みもせず、待っているんですね。
風吹けば沖つ白波、美しい歌です。
歌に込められた女の人の気持ちを思うと、ほろっときます。
昔の人は気持ちをこんな風に歌に込めてたんですね。
改めて、歌とは素晴らしいなあと思いました。
先生の解釈があるから伊勢物語がスラスラ読めます。
これからも色々な伊勢物語を教えてください。
楽しみにしています。
歌には二つの働きがあります。自分の思いに形を与えること(ここでは静めること)と、相手の心を動かすことです。
女の歌はその二つに成功しています。すべてを女が仕組んだとは思いたくないです。
私は、事態が好転したのは、歌の力によると考えました。
どうぞ、これからも読み続けてください。コメントもお待ちしています。