第百八十段  さぎちょうの由来

 さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖(ぎちょう)を、真言院より神泉苑へ出して、焼きあぐるなり。「法成就の池にこそ」とはやすは、神泉苑の池をいふなり。

さぎちやう:毬杖を三つ作るところから言う。悪魔払いの儀式。毬杖の他には、扇子・短冊・天皇の書き初めなどを焼く。現代のどんと焼きの様な行事。
毬杖:毬打ちの杖。
真言院:内裏にある、真言の御修法の行われる道場。
神泉苑:皇居外苑にあった天皇の遊覧用の園。
法成就の池:弘法大師が雨乞いの法を修して功を奏したことによる命名。「法成就」とは祈祷の効験があらわれること。

「さぎちやうは、正月に打って遊んでいる毬杖を真言院から神泉苑へ出して、焼き上げるのである。『法成就の池にこそ』と囃すのは、神泉苑の池を言うのだ。」

「さぎちやう」について故事来歴の蘊蓄を傾け、由来も知らずに大騒ぎしていることを批判している。それにしても、兼好は、こんなトリビアとも言える、宮中の行事の由来をよくここまで調べたものだ。今で言えば、「宮中オタク」である。あるいは「チコちゃんに叱られる!」である。朝廷の権威によって秩序を守ることを重んじていたからだろうか。単に自分の知識を誇示したかったからだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    「宮中オタク」、言い得て妙ですね。これまでにも兼好は宮中の風習、いわれやその由来への強いこだわりを見せておりますが、それが悪いとは思いません。でも、それは万人の関心事ではない(民間の風習は寧ろ軽んじている?)。全ての物事が理屈で説明し切れるものでもない。「自己満足を押し付けられてもね、、」と敬遠されかねません。歩く時に右足の次は左足を出す、と考えながら歩く人、そういませんよね。鼻につく奴、と嫌われて耳を傾けて貰えなくなっては折角の知識、勿体無い。兼好さん、お気をつけあそばせ。

    • 山川 信一 より:

      ごもっともな、ご意見です。兼好に聞かせてあげたい。それにしても、兼好は宮中の行事や儀式になぜここまでこだわるのでしょう。別の誰かの随筆に「訳のわからない人」「困った人」の例に引かれそうです。

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