奥深く潜みたりしまことの我

 かくて三年《みとせ》ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒《ほ》むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥《おだやか》ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜《よろ》しからず、また善く法典を諳《そらん》じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

「こうして三年が夢のように過ぎる。と言うことは、理想的な日々だったんだろうね。すると、大学で学んでいるうちに本当の自分に目覚める。これまでの自分は、父の遺言や母の教えに従い、人が神童だと褒めてくれるのが嬉しくて勉強してきたに過ぎない。その時から、今度は仕事で上役からの評価が高いことを喜んで生きてきた時まで、自分が全く受動的で機械的な生き方をしてきたと思う。
 二十五歳になって、ドイツの大学の自由な気風がそれを自覚させたんだね。奥に潜んでいた本当に自分が目覚めて、自分が政治家にも法律家にも向かないことを悟る。要するにこれまでの自分は母が望むように生きてきた、人に認められたくて生きてきたんだと思う。
 豊太郎はようやく自我に目覚め、自己嫌悪に陥り、本当の自分に気が付く。これをどう思う?」
「豊太郎は、大学の自由な気風によって、母からも立場からも解放されて本当の自分になれたんだよね。よかったじゃない。まさに夢のような時期だよね。」
「でも、ちょっと気になる表現があるんだ。「悟りたりと思ひぬ。」の「思ひぬ」なんだ。〈悟りぬ〉と言い切っていない。なぜだろう?」
「これは、過去を振りかえって書いているんだよね。すると、今ではそうじゃなかったと思っているってことだね。あれは錯覚だったんだって言いたいんだ。」
「欧米に留学すると、今でも同じように〈自分に目覚める〉人がいる。ただ、そういう人が日本に帰ってくると、気が大きくなるのか、帰ってきた当座はすごく勇ましい。ところが、少し時間が経つと大人しくなる。すぐに元の自分に戻ってしまう。要するにこういう人って、周りに合わせているだけなんだ。欧米にいる時は欧米に、日本に帰ってくると日本に合わせている。環境や状況が変わるとそれに合わせているに過ぎないんだ。本当に自分があるわけじゃない。あの下人と一緒。」
「つまり、どこまでも〈日本人〉ってことか。豊太郎は後になってそれに気付いたんだね。」
 豊太郎は、自分がそれまで所動的・機械的な生き方をしてきたことに自己嫌悪する。そして、本来の自分らしい生き方をしたいと願う。しかし、それに沿って生きていけるかどうかはまた別問題だ。そもそも、本来の自分とは何なのか?難しい問題だ。

コメント

  1. らん より:

    所動的、機械的な生き方ですか。考えさせられました。
    親や周りの人たちの期待に応える生き方をしてきたんですね。
    それも豊太郎らしい人生だと思うけど、後悔して自己嫌悪してるから思うような生き方ではなかったのですね。
    なら、自分らしい人生はどんな風ならよかったのかなあ。
    下人だ。また下人が出てきました。
    下人はどこにでもいますね。

    • 山川 信一 より:

      自分が「所動的、機械的」に生きてきたことを知った時、普通人はそこから抜け出そうとします。
      豊太郎もそれを試みます。しかし、その試みは成功するでしょうか?それを辿っていきましょう。
      生徒が言うように世の中は「下人」だらけです。

  2. すいわ より:

    優秀でどんな事でもそつなくこなせてしまうのが、かえって仇になっていたのでしょうか。それにしても二十五歳まで何の疑問も持たずに過ごして来た事には驚きを感じます。中学生位になると異性の親に対して特に反抗的な態度を取ったりするものですが、二人きりの家族、母子それぞれが依存しあった状態でバランスを取っていたのでしょうか。母の言う通り(言いなり?)にしていれば安心、万が一失敗しても選んだのは自分でないと責任は逃れられますね。でも、ここまで母のプログラムした自動運転で来て、いきなり自身で自分を操縦するのは難しい事でしょう。政治家、法律家を選ばないとして豊太郎はこれからどう生きて行くのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      そうですね、普通なら反抗期は中2の頃です。豊太郎はあまりにも「いい子」でした。
      二十五差になり、ようやくこれまで母の言いなりに生きてきたことにようやく気が付いたのです。
      そこから抜け出そうとする豊太郎の〈闘い〉が始まります。成功するのでしょうか?

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