第百九十三段  専門・専門家の取り扱い方

 くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、さらにあたるべからず。つたなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みなるは、かしこき人の、この芸におろかなるを見て、己が智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字の法師、暗証の禅師、たがひにはかりて、己にしかずと思へる、ともにあたらず。己が境界にあらざるものをば、あらそふべからず、是非すべからず。

文字の法師:教理を学問的にのみ研究して、悟りの道を忘れている他宗の僧を、禅宗の僧が嘲って言う語。
暗証の禅師:禅宗の僧が「不立文字」を掲げて、経文を読まずに座禅に耽り、仏教の教理に疎いことを、他宗の僧が嘲って言う語。

「愚かな人が他人を評して、その知恵の程度を知ったと思うとしたら、それは、少しも当たっているはずがない。程度の低い人で、碁を打つことだけに頭が働いて上手な人は、賢い人が、この碁の技術に劣っているのを見て、自分の知恵に及ばないと決めつけて、様々な道の職人が自分の道を他人が知らないのを見て、自分が優れていると思うとしたら、そのことは、大きな誤りであるに違いない。文字の法師、暗証の禅師がお互いを評して、自分に及ばない思っているのは、どちらも当たらない。自分の専門の範囲に無いものについては、争ってはならないし、良し悪しを判断してはならない。」

専門・専門家の取り扱い方について、次のように述べている。その人の専門外のことによって、他人を評価してはいけない。また、自らの専門を基準に他人の至らなさを見て、自らを高く評価してもいけない。他人は、その人自身の専門によって評価されるべきであるから。さらに、自らの専門外のことに口を出してはならない。到底正しい評価などできないから。専門・専門家は、それぞれ尊重されるべきである。
一応、もっともな指摘である。専門・専門家を尊ぶ兼好らしい考えである。しかし、問題が無い訳ではない。たとえば、素人が口を出さないことをいいことに専門家がふんぞり返る危険性もある。
具体例として、文字の法師、暗証の禅師の例が挙がっている。けれど、一般論にかこつけて、案外このことが言いたかったのかもしれない。両者の不毛な争い・非難の応酬に一言言いたかったのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「批判」は必要なものだと思います。それをきっかけに批判を受ける側は自分で気付かないことに気付くきっかけになります。それが素人からの指摘であっても、むしろプロとして理路整然と答えればいい。無駄なのは根拠のない非難、悪口の類。そこから生まれるものは妬み嫉みくらいのものでしょう。
    専門家がその専門性に胡座をかくのは今も同じなのでしょう。アップデートしない専門、これも年齢の問題ではないですね。

    • 山川 信一 より:

      この話は、専門外の人への批判ですから、これはこれでもっともです。でも、専門家に焦点を当てれば、すいわさんが指摘するようなことが言えますね。
      恐らく兼好の関心は、「文字の法師・暗証の禅師」に向いていたのでしょう。そのための一般論だと思われます。

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