それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
春菜先輩だ。さすがに文学好きだけあって、もうすっかり慣れてきたね。
「「何分かの後である。」と時間を置いたのはなぜ?これは、読めばわかるけど、前の部分と繋がっているわよね。なのに、なんでこんな書き方をしたの?」
「前の部分との切れ目を入れたかったんじゃない?言わば、今までの部分は序で、ここからが本編が始まると言いたいからでは?」
「じゃあ、「一人の男」と書いたのも同じ理由から?」
「そうだね。それと、読者に「ええっ、下人じゃないの?下人と同じ人なの?」って思わせるため。その分、緊張して慎重に読むよね。」
「「猫のように身をちぢめて、息を殺しながら」とあるけれど、これは何をたとえているの?」
「その時の下人の格好と心理状態。猫がこんな格好をする時って、警戒心と好奇心と小狡さと攻撃性が入り交じっているよね。そんな心理状態。」
「「火の光が」「頬をぬらしている。」という表現が面白いけど、どんな感じ?」
「照らしているより「ぬらして」の方が輝きが弱くて、光が頬に張り付いている感じ。照り返していないんだ。」
「「短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。」とあるけれど、なぜこんなことを書いたの?」
「「一人の男」が下人であることを伝えるため。ニキビが唯一の特徴だからね。」
「その様子をリアルに想像させるため。細部を描くことは効果的だから。」
「下人の若さを強調するため。短い髭とあるのは、ニキビと共に下人がまだ若いことを表している。」
「「死人ばかりだと高を括っていた。」とあるけれど、下人は死人にはあまり恐怖を感じていないのはなぜ?」
「死人は何もしてこないからだよ。生きている人は自分に危害を加える可能性があるからね。生きている人の方がずっと始末が悪いんだ。」
「「その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映った。」とあるけれど、色彩が効果的に用いられている。蜘蛛の巣の描写が効果的。汚らしくて、無気味な感じがする。」
「「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。」とあるけれど、「この」は何を指しているの?」
「これまで読者と共有してきた羅生門の状況。この無気味な雨の夜に、この物騒な羅生門でという意味。」
「「この」と言う指示語の効果は?」
「読者に一体感を持たせる効果。」
「下人のこの判断の効果は?」
「それは一体何物なのかと期待を持たせつつ、」読者の恐怖心を煽る効果。
いよいよ事件が始まるね。期待感をいやが上にも盛り上げている。
コメント
「幅の広い梯子」と重ねて言っていますね。そもそも梯子って、そう幅の広いものというイメージがないのですが、その広さが上へと上がりやすいように誘っているようで無気味です。二、三段上がったところで上に自分以外の生き物、火を持って歩くのだから「人」にちがいない存在に気付いて、たかが上の階に上がる梯子の中段まで進むのに数分を費やしている。屋根裏のネズミを伺う猫のように、相手に自分の気配を気取られないように慎重に。前の段で恐れでちぢこまっていたのとは明らかにちがう身の縮め方です。「一人の男が」が仰るように、一瞬、下人と同一人物と判然としない書き方が、梯子を登るその数分のうちに下人自身が変化していく事を意識させます。「短い鬚」は元々たくわえたものでなく、4、5日手入れできずに伸びてしまった顎髭でしょうか?生きているから鬚も伸びるのに、風貌が二階の住人に近づいて行くようでもあります。「濁った黄色い光」が硫黄のような腐臭を思わせて羅生門のただならぬ現状を想像させます。こんな夜に、こんなところに居るのは、ろくなものではない。頭ではわかっているのですが、鮮やかな色を提示されればされるほど、色を失って黒い闇に飲み込まれて行く感覚に取り憑かれます。
梯子は、階段の代わりなのでしょう。だから広めなのでしょう。でも、それが下人を楼へと誘うというのはそうですね。
「梯子を登るその数分のうちに下人自身が変化していく事を意識させます。」とありますが、それはどうでしょうか?下人はむしろ変わらないイメージがありませんか?勇気がでない人なんですから。
髭はもちろん無精髭です。ただそれでも、若いとあまり髭は伸びません。それで短いのです。
「「濁った黄色い光」が硫黄のような腐臭を思わせて羅生門のただならぬ現状を想像させます。」この連想はいいですね。ただ、「濁った黄色い光」は「鮮やかな色」と言えるでしょうか?
「ええっ、下人じゃないの?下人と同じ人なの?」と、私も思いました。
一人の男と下人は別の人物かと思って読んでました。
ニキビもあって似ている二人だなあと。。。
一人の男の後に下人となったりして、頭がこんがらがってしまいました。
先生、なんでこんな書き方なのですか?
読者をちょっと混乱させるのが狙いです。その上で改めて今一度緊張感を持ってこの先を読んでほしかったのです。
いよいよここから本編が始まります。そう伝えているのです。
「濁った黄色い光」の黄色に限定したのでなく、物語に登場したイメージそのままの色について「鮮やか」と書いたつもりでした。青、赤、黄、白、黒。五行の正色、全部出てきました。下人は、そうですね、変わる、というよりも、元々持っていたものが表出してくる感じでしょうか。前段の太刀が鞘走らないようにしているところが刀身(なかみ)、本性が顔を出さないようにしているように見えて、臆病故の制御しきれない暴力性がいつ現れ出てくるかと、下人が階段を一段上がる毎に読む側の心拍も上がる感じがします。
なるほどそうでしたか、それならわかります。五行の正色が全部出て来ましたね。これは明らかに意識的に使っています。その意味で『羅生門』は実験的な小説ですね。
下人は、自分の行動を自分では決められない人間です。生か死かのギリギリのところまで追い詰められても、まだ自分で出した結論である盗人になることへの勇気が出ないのですから。
この点は、容易には変わらないように思えます。「臆病故の制御しきれない暴力性」は、これまでのどこからわかりますか?