フィロストラトスの役割

「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」


 真登香班長に戻った。今回の発表もあとわずか。今日はどういう展開になるのか、楽しみ。
「ここは不思議な場面よね。フィロストラトスというセリヌンティウスの弟子が出てくる。そして、なぜかメロスが走るのを止めさせようとする。おそらく、メロスはもう間に合わないと思っているのね。つまり、セリヌンティウスが処刑してから到着すると思っている。すると、メロスは許される。それが我慢ならなのね。きっと、メロスはよくやったと言われて非難されないだろうから。だから、ここで止めさせてメロスを卑怯者にしたのだわ。言わば逆恨みね。でも、こういうことってあると思う。味方と信じていた人が思わぬ邪魔をすることがあると思う。味方がいつも自分を応援してくれるとは限らないの。たとえば、仲がいいと思っていた友達が実は自分を妬んでいて、ある時裏切るとか、漫画にもあるわね。味方は、予想外の敵になることもあるの。これが第九の障害ね。」
「漫画だけじゃなくて、現実にそういうことあるよ。あたしが第一志望の学校に落ちた時、母親が凄くがっかりしたんだ。あたしを見る目が冷たかった。あのことが忘れられないよ。母親は味方じゃなかったんだってわかった。あたしは期待に応えているから愛されてたんだって。このケースとは少しずれるけど、味方がそうじゃないってことはあると思うな。」と若葉先輩がつらそうに言った。あたしは何も言えなかった。
 少しの沈黙の後、真登香班長が発表を続けた。
「そのフィロストラトスなんだけど、セリヌンティウスの弟子で「若い石工」よね。メロスとセリヌンティウスはほぼ同年齢だから、セリヌンティウスの年齢が想定できれば、メロスの年齢もわかるわ。まず、フィロストラトスは何歳くらい何だろう?「若い石工」とあるから、若いのよね。でも若いはくせもの。いくつだって若いと言えるから。だけど、これはメロスに対して「若い」ことを意味している。メロスが年齢差を感じるくらいなの。
 一般に男が職に就く年齢だけど、15歳というのが一般的じゃないかな。『論語』にも15歳は志学とあって、自分の進む道を決める年齢だから。今だって、義務教育を済ませた年齢。ただ、昔だから、もう少し早く働いていたことも考えられるから、12歳~15歳で石工に弟子入りしたとする。でも、この年齢は若いとはあまり言わない。まだ子どもだからね。すると、それから数年経って、17歳か~20歳くらいと思われる。なら、セリヌンティウスはいくつくらい上なの?そもそも、何年くらいその仕事に就いたら、弟子が取れる腕前になるのかしら?5年ってことはないわよね。せめて10年は要る。本当は15年と言いたい。すると、12歳で石工になったとしても、今は27歳、15歳なら30歳と言うことになるわ。セリヌンティウスの年齢は、27歳~30歳になってしまう。でも、これならフィロストラトスとの年齢差も丁度いい。
 つまり、メロスの年齢は、27歳~30歳になるの。若葉の26歳を上廻ったわ。」
 衝撃的だった。メロスが30歳だなんて!
「ええええっ、メロスはそんなおじさんだったんですか!あたし嫌だ~。」と美鈴。
「でも、筋が通っているよ。それに反論するなら、根拠が要るよ、美鈴。あたしもそこまで上とは思わなかったなあ。でも、納得。」と若葉先輩が美鈴をなだめながら言った。
 フィロストラトスは、この二つの役割を持って登場したんだね。なんて緻密な構成になっているんだろう。太宰治の頭の中ってどうなっているんだろう?凄い、凄すぎる!
 さすが、真登香班長だ。鋭い読み。でも、なんとかこれをひっくり返せないかなあ!

コメント

  1. すいわ より:

    フィロストラトスはメロスを卑怯者にしたいのですか?メロスのせいで兄弟子を失う事になるのですから、何とも言い難い無念な気持ちになるでしょうし、メロスの行動に恨みつらみの一つや二つぶつけたくもなるでしょう。セリヌンティウスが大事、でも、セリヌンティウスが命を賭しても信頼している大切な友人を敢えて卑怯者にさせようと思うのでしょうか。王との約束ではメロスは遅れれば命を助けることになっている、でも、暴虐の王が約束を果たすとは限らない、せめてセリヌンティウスの守ろうとしたメロスを逃そうとした、のではと思いました。それがメロスの意思とは反するものであっても。もしメロスの命は尽きたとしても、メロスの信実はそれを目撃した人々の中に生き続けます。
    メロスの年齢、、30歳、、妹と14歳差ですか?メロスに自身を重ねているとしたら、、太宰、30歳くらいの時に書いていたのかしら、、

    • 山川 信一 より:

      フィロストラトスの恨みの内容ですね。まず、セリヌンティウスは、「兄弟子」ではありません。フィロストラトスの師です。自分の師がメロスの勝手な約束のために殺されるのです。メロスさえあんな約束をしなければ、自分の師は殺されなかった。ならば、殺したのはメロスです。メロスを恨むのも当然です。そんなフィロストラトスがメロスを止めるのはなぜでしょうか?セリヌンティウスの気持ちを思いやってでしょうか?フィロストラトスは、メロスにとって、ちょっと遅れてくるのが最も都合が良いことを知っています。ディオニスはまさにそう言いました。ディオニスの言葉は、この場面の伏線になっています。フィロストラトスは、そうはさせたくなかったのです。
      太宰治が『走れメロス』を書いたのは、まさに30歳の時でした。

      • すいわ より:

        唐突に登場するフィロストラトスを上手く捉えられていませんでした。子供の頃読んだ時、フィロストラトスを人間だと思っておりませんでした。メフィストフェレスのような悪魔が最後の最後でメロスを騙して諦めさせようと声掛けて反意出来ず、上手くいかない為、最後の方は口調も同等以下の者に投げ掛けるような言葉に戻っている、王もこの悪魔に猜疑心を植え付けられてあのようになっていたのでは?と思っていた事を、思い出しました。とんだお伽話に作り替えていて10歳の自分にびっくりです。

        • 山川 信一 より:

          確かに、フィロストラトスの言葉は悪魔の囁きです。彼はこの時、「悪魔」でした。メロスを堕落へと甘く誘ったのです。だから、言葉遣いも丁寧でした。
          最後に口調が変わったのは、化けの皮が剥がれたからです。本音では恨んでいるからです。

  2. なつはよる より:

    フィロストラトスは、メロスにセリヌンティウスの様子を教えてくれた最初の人です。メロスはそれを聞いて、本当にうれしかったと思います。自分の信じている友が自分を信じて待ってくれている! こんなにうれしいことはありません。すでにトップスピードで走っているメロスですが、そのうれしさが全身に伝わって、さらに奇跡的なスピードになったことを想像しました。

    フィロストラトスは、読者にセリヌンティウスの人柄と年齢を想像させてくれるありがたい存在ですが、メロスにとっては誰でもよかったのではないかと思いました。セリヌンティウスのことしか考えていなかったはずです。フィロストラトスの方はメロスを恨んでいたかもしれませんが、全然障害とはなっていないと感じました。

    山川先生が素晴らしいランナーでいらっしゃることを存じ上げているのに、走っている人の気持ちについて述べるのは、大変勇気がいることで、ためらってしまうのですが、勝利がかかった場面で多くの人に応援されて走るときには、そのうれしさと責任と、その場の高揚感に支えられて、いつもの自分よりずっと速く走れるという経験を、学校で何度もしたことがあり、今も幸せな気持ちで振り返ります。

    フィロストラトスの最後の言葉は、話を聞いたメロスの走りが変わったことを客観的にはっきりと見ることができて、「これなら間に合うかもしれない」と本当に思ったのではないかと思いました。最後には応援してくれているように私は受け取りました。

    • 山川 信一 より:

      「メロスにセリヌンティウスの様子を教えてくれた最初の人です。」とありますが、「最初」でしょうか?その直前に「一団の旅人とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。」とあります。
      具体的に教えてくれたことは確かです。しかし、何を知らされようと、メロスの決意に変わりはありません。それで決心が揺らぐことはありません。ただただ走るのみです。
      フィロストラトスは、セリヌンティウスの弟子、つまり、極めて身近な人物であることが重要です。その人物が最初はメロスの走るのを止めさせようとしたのです。こういうことは、日常でもあります。自分のことを一番よくわかってくれると思っていた人物が、たとえば母親が自分のしたいことに反対するなど。
      応援が何よりの励みになることはその通りです。私も応援によって力が湧いてきた経験が何度もあります。フィロストラトスの最後の言葉もそうだったに違いありません。

  3. なつはよる より:

    先生、ありがとうございます。若葉先輩の話は、状況がよく想像できるあまり、私もかける言葉が見つかりません。入試の話は、まだなかなか冷静に語ることはできません。

    大学生になったら家庭教師をしてみたいと楽しみにしていましたが、お母様から、少し似たようなことを言われたことがあります。「この子が勉強を好きにならないようにしてください。そのうち、どうせ自分はできないと気がつく時が来るので、かわいそうです。」とか、「先生にあこがれる気持ちを決して持たせないでください。勉強が大変になって、きっと一生懸命やってもうまくいかないと思うので、かわいそうなだけです。」とか、「もし本気で勉強してしまって受験がうまくいかなかったら、この子がとても傷つくと思うので、行きたい学校を持たせないでください。」とか・・・。

    私は、お母様が子どもを大切に思う気持ちは伝わりましたが、実際には足を引っ張っているのではないかと感じました。

    • 山川 信一 より:

      受験は罪ですね。特に中学受験はそうです。あれは(母)親の受験です。私もそれに加担していました。私も罪人です。
      ただ、入試問題を工夫して、受験勉強がたとえ受験に合格できなくても役に立つようにしました。

  4. すいわ より:

    高校まで公立で学んで来た私には中学受験の苦労はわかりません。でも、乗り越えなくてはならない試練ってありますよね。だから、先生が罪人なんて思わないし、なつはよるさん、生徒さんと親御さんの板挟みに悩まれて、なんて優しいんだろうなぁ、と思います。合格出来ればそれに越した事がない、自信に繋がりますし、合格出来なくても、何が足りないか、自分自身を客観的に見つめる事が出来る。その結果は本人のもので評価も本人がするもので、他者の介入するところではない。そこで問題が生じるのですね。
    私の知っている子で中学受験した時、国語の問題文に使われた文があまりに良くて、読み耽ってしまって問題解くの忘れたって言う子がいました。不合格だったのですが、その子が問題文がどんな話だったか話してくれた時の顔を忘れられません。合格か不合格かなんて二の次で、とにかくその文に出会えた喜びの方がその子には大きかったのでしょうね。
    メロスが走るのと同じ、もう理屈じゃなく、ただひたすらに走る。恋するのと同じ、学びたいと思ったら誰が止めたところで止められるものじゃありませんよね。なつはよるさん、メロスの成し遂げる姿同様、結果はどうであれ、その過程を知っている貴女は生徒さんがその結果を受け止める姿を見届けてあげてください。

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