五せちのあしたにかむさしのたまのおちたりけるを見て、たかならむととふらひてよめる河原の左のおほいまうちきみ
ぬしやたれとへとしらたまいはなくにさらはなへてやあはれとおもはむ (873)
主や誰問へど白玉言はなくにさらば並べてやあはれと思はむ
「五節の舞いが行われた翌朝舞姫が簪に付けた玉が落ちていたのを見て、誰のものだろうとめいめいの部屋を訪ねてから詠んだ 河原の左大臣
持ち主は誰かと尋ねても、白玉は言わないので、それなら舞姫すべてを愛しいと思おうか。」
「(主)や」は、係助詞で疑問を表す。「(問へ)ど」は、接続助詞で逆接を表す。「(言は)なくに」は、連語で逆接を表す。「(並べて)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あはれ)と」は、格助詞で引用を表す。「(思は)む」は、助動詞「む」の連体形で意志を表す。
舞台に白玉が落ちていましたよ。持ち主はどなたですか。恥ずかしがらずに答えてください。あれ、どなたも私の物だと言ってくれませんね。これを機会にその方とお近づきになろうとしたのになあ。わかりました。それならば、舞姫みんなを好きになってしまいましょう。
前の歌とは、「五節の舞姫」繋がりである。前の歌の後日談のようにも思える。五節の翌朝にまだ昨日の華やかな雰囲気が残っている。誰しも醒めやらぬ高揚した気分でいる。その中、作者は白玉を拾う。五節の名残のように愛おしく思い、その持ち主を探す。そうすることで、昨日に戻れるような気がして。ところが、その舞姫は、白玉を落したことを自らの不始末だと思うのか、自分が白玉を落したとは名告らない。そこで作者は、自分の持ち主を訪ね歩いた理由を知らせる。決して不始末だと責めるためではなく、その舞姫が愛おしいからなのだと伝える。この白玉は、言わば、平安版シンデレラの靴である。しかし、過ぎ去った楽しい時間は決して戻ることはない。そんな人間の定めも感じさせる。表現としては、作者の行為の理由が最後にわかる仕掛になっている。編集者は、こうした内容と表現を評価したのだろう。
コメント
五節の舞の余韻を味わう風雅な、刹那な歌。でも、、。
852番の歌に詠まれた庭の主人、源融ですよね。モテる男の確信犯のやり口なのでは、と思いました。白玉が落ちていて持ち主に届けようとしたのは事実かもしれないけれど、あくまでもきっかけにすぎず、五節の舞で見染めた娘がどこの子か探り、この家の娘(もしくは女御)と確認した上でこの歌を贈りロックオンする。「誰も名乗りを上げてくれない。だったらみんな纏めて愛でてしまおうか(この歌を届けさせたのは君のところにだけなのだけれどね)」こんな裏の顔もあるのでは?
源融の歌には、更に有名な「陸奥の信夫綟摺りたれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに」(724)がありますね。「英雄、色を好む」とも言います。融も恋多き人だったのでしょう。『伊勢物語』八十一段にも顔を出します。この歌も恋のアプローチの手段なのでしょうね。