《締めの歌》

題しらす 読人しらす

なかれてはいもせのやまのなかにおつるよしののかはのよしやよのなか (828)

流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世中

「題知らず 詠み人知らず
流れては妹背の山の中に落ちる吉野川ではないが、私は泣きながら恋をする。ままよ、男女の仲は。」

「流れては妹背の山の中に落つる吉野の川の」は、「よしや」を導く序詞。「妹背の山」に男女を掛ける。「なかれては」は、「流れては」と「泣かれては」の掛詞。
吉野川は下流が紀の川となり、流れては妹山と背山の間を通る。それに似て、涙は泣かれては男女の間に落ちて流れる。しかも、その涙は喜びの涙ではなく、いつだって悲しみの涙なのだ。それがわかっているのに、何度でも恋してしまう。そんな自分に何を言ってもどうにもならない。ままよ、もうどうなっても構わない。男女の仲はこうしたものなのだ。なるようにしかならない。
諦めにも似た悟りの境地である。作者は、恋する自分を一般化することで慰めている。
この歌は、前の歌とは「川」「なかれて」繋がりである。そして、恋歌五の巻末の歌であり、すなわち恋歌の最後の歌である。亀井勝一郎は、「恋愛は美しき誤解」「結婚は惨憺たる理解」と言った。しかし、『古今和歌集』では、「恋愛」が既に「惨憺たる」ものであった。人はそれがわかっているのに恋せざるを得ない。男女の仲はままならない。なるようにしかならないのだ。この歌は、これまで見てきた恋の諸相を振り返っての感慨にもなっている。それを吉野川が妹背の山の間を流れることに注目し、男女の間に流れる涙にたとえる。そして、「吉野川」から「よしや」を導く。編集者は、こうした点を恋歌の締めとしてふさわしいと評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    和歌山県のかつらぎ町に背山、妹山、吉野川を挟んで今でも残っているのですね。地図で見てしまいました。冒頭から「なかれては」、男女の仲と言うのは平坦にはいかない、涙を流すことが前提で止めることのできない感情に押し流されて翻弄される。頭で考えてどうにかなることでもなく、恋人たちの間には必ず越え難い障害が立ちはだかる。それでも恋することをやめられない。恋歌の総括に相応しい歌ですね。やり合うでもなく、一方通行のやり場のない恋五の章、続けて読む側もなかなか心削られる作業だった事でしょう。「よしやよのなか」、編集の皆さん、解説下さった先生、お疲れ様でした。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、今も残る実景を題材にして作ったのですね。それを見れば更に作者の思いに近づけるに違いありません。
      恋は障害が付きものですが、たとえそれが無くても、必ず飽きが来ます。どうやろうと、思い通りにはいきません。それでも繰り返し繰り返し人は恋をします。「よしやよのなか」の思いを抱きながら。やはり、男と女はそうやって関わっていくべきなのです。どんなに傷つけ合っても、関わりを避けるべきではありません。『古今和歌集』の歌は、恋がそれだけの魅力があることを教えてくれています。

  2. 優子 高木 より:

    諦めも大切ですね。また別の新しい道が開けることを信じて頑張ろうと思います。人生の楽しみ方は色々ありますから。

    • 山川 信一 より:

      高木さん、初コメントをありがとうございます。共に学ぶ方の存在を知ることは大きな喜びです。
      さて、この歌をどう読むかは人それぞれですね。別の新しい道に進むのもいいでしょう。恋だけが人生の楽しみではありませんから。でも、また恋をするのも悪くはないでしょう。なぜなら、こんなに人の心を揺さぶる営みはそうそうありませんから。『古今和歌集』の歌は、そう思わせてくれます。

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