《心の秋は飽き》

題しらす よみ人しらす

わかそてにまたきしくれのふりぬるはきみかこころにあきやきぬらむ (763)

我が袖に未だき時雨の降りぬるは君が心にあきや来ぬらむ

「題知らず 詠み人知らず
私の袖に早くも時雨の降ってしまったのは、君の心に秋が来ているからだろうか。」

「(降り)ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「あき」は、「秋」と「飽き」の掛詞。「(秋)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(来)ぬらむ」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形。
私の袖に秋でもないのに早くも時雨が降ってしまいました。これは、もちろんおわかりでしょうが、悲しくて流す涙で袖が濡れてしまったことを言っています。こんなことになったのは、あなたの心に秋が来ているから、つまり、あなたが私に飽きているからなのでしょうか。
飽きられてしまった悲しみを季節になぞらえて詠んでいる。
前の歌とは、自然物のたとえ繋がりである。「風」から「雨」に繋げている。しかも、この歌は、「時雨」から「秋」を思わせ、「飽き」に繋げている。この巧みな展開を編集者は評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    誰にも等しく時は流れる。あなたと私も一緒に過ごしているはずだった。なのに私の袖にまだ降るはずのない時雨が。いつの間にかあなたと時差が出来てしまっていたのだろうか?こんな風に袖が濡れるのは、あなたにはもう「あき」が訪れてしまったからなのか?
    「あなたに飽きられて会えないせいで私は泣き濡れているのです」という内容のビジュアルをこんな形に歌に落とし込む事が出来るのですね。

    • 山川 信一 より:

      「時雨」は、「あき」を導くための仕掛ですが、作者の姿も見えてきますね。なるほど、ビジュアルです。

  2. まりりん より:

    季節の秋の寂しさ、物悲しさを、恋人に飽きられて恋が終わった寂しさと重ねているのですね。時雨で濡れた袖は、涙で濡れた袖そのものですね。

    • 山川 信一 より:

      時雨は秋の訪れを告げます。それと共に寂しさを感じさせます。その寂しさは、飽きられた悲しみに通うものなのですね。その発見がこの歌の手柄でしょう。

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