《恋の普遍性》 巻十一 恋一

題しらす 読人しらす

ほとときすなくやさつきのあやめくさあやめもしらぬこひもするかな (469)

郭公なくや皐月の菖蒲草文目も知らぬ恋もするかな

「ホトトギスが泣いていることだ。五月のアヤメ草も知らない理性の働かない恋もすることだなあ。」

「なくや」の「なく」は、四段活用の動詞「なく」の連体形で「さつき」に係る。「や」は、間投助詞で詠嘆を表す。「(あやめ)も」は、係助詞で他に類似の事象があることを表す。「(しら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(こひ)も」は、係助詞で強調を表す。「かな」は、詠嘆の終助詞。
あれっ、ホトトギスが鳴いているよ。初音を聞こうと思って起きていた訳では無いのに、恋の苦しみに寝付けず思わずその声を聞いてしまった。ホトトギスは、私のように泣いているのだろう。今の私にはそう聞こえる。恋の苦しみで季節さえも忘れていたが、五月になったのだな。五月と言えば、アヤメ草が思われる。アヤメ草は、五月雨に濡れて泥(こひぢ)の中に生えている。その姿は、まるで涙で袖をしとどに濡らしている私のようだ。私は、アヤメが知る泥(こひぢ)ではない恋路にはまり、アヤメさえも知らない、分別の働きようがない恋をしているのだなあ。
『古今和歌集』は、二部構成になっている。前半のメインは四季の歌であり、後半のメインは恋の歌である。この歌は、後半の巻頭を飾る一首である。したがって、恋の歌全体を代表する歌である。貫之を始めとする編者に『古今和歌集』を代表する一首として認められたということだ。なるほど、一字一句どこにも隙がない。
『古今和歌集』の恋は一貫して恋の辛さ苦しさを歌っている。この歌は、季節の事物に託して恋の辛さ苦しさを表している。「ホトトギス」「さつき」「あやめ」といった好ましいものさえも、恋する身にはそうは感じられないのだ。これは、恋する者の普遍的思いを詠んでいる。つまり、個人的で具体的な経験を表したものではない。

コメント

  1. まりりん より:

    古今和歌集、いよいよ後半ですね。恋は楽しいことも嬉しいこともたくさんある筈なのに、古今和歌集では恋の辛さや苦しさばかりを詠っているのですね。なぜでしょう? シェークスピアもそうですが、悲劇の方が物語として高揚するからでしょうか?

    • 山川 信一 より:

      トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭にこうあります。「幸せな家族はいずれも似通っている。 だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸な形がある」ここから考えると、幸福は似ていて、不幸はそれぞれ違うと言うことになります。幸福を歌にしても、どれも似ていてあまり面白くないからでしょう。

  2. すいわ より:

    水辺に咲く菖蒲。晴れ渡る皐月の空を水面に映してなんとも涼しげで清々しい。おや、郭公の声。こんなに晴れやかな季節にお前は鳴く(泣く)のだね。そうか、この菖蒲は知らないのだ、お前が分別もつかない程の苦しい恋に涙し、この池を満たしている事を。恋は美しい。でもその反面見えない水底は泥濘み見通せず息も出来ない、、。
    そこで恋路と掛けて泥(こひぢ)が出てくるのですね。恐れ入りました。

    • 山川 信一 より:

      この歌では「アヤメ」ではなく、「アヤメ草」になっています。この表現は泥を連想させるためのものです。「アヤメ」だと、花を連想させます。それが、「アヤメ草」となると、根に目が行きます。泥沼を連想させます。アヤメは泥にはまって咲いています。これが恋路にはまって身動き取れない様を連想させます。泥にはまって咲くアヤメですから、その不自由さはある程度知っているはずです。しかし、作者のつらさ苦しさは格別もので、それこそがアヤメさえも知らぬ恋だと言うのです。

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