あつまの方へ友とする人ひとりふたりいさなひていきけり。みかはのくにやつはしといふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつはたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかけにおりゐて、かきつはたといふいつもしをくのかしらにすゑてたひの心をよまむとてよめる 在原業平朝臣
からころもきつつなれにしつましあれははるはるきぬるたひをしそおもふ (410)
唐衣着つつなれにしつましあればはるはるきぬるたびをしぞ思ふ
「関東の方へ友とする人一人二人誘って行った。三河国の八つ橋と言う所に到った時に、その川の辺に杜若がとても目を引くように咲いているのを見て、木の陰に下りて座って、かきつばたという五文字を句の始めに据えて旅の心を詠もうとして詠んだ 在原業平
唐衣を着慣れてくたくたになるように親しむ妻があるので遙々やって来た旅を思うことだ。」
一首全体が着物の縁語でできている。「唐衣」「きつつ(着つつ)」「なれ(萎れ)」「つま(褄)」「はるばる(張る張る)」「きぬる(着ぬる)」。「たび(足袋)」「唐衣着つつ」は、「なれにし」の序詞。また、次の掛詞が使ってある。「なれにし(慣れにし・萎れにし)」「つま(妻・褄)」「はるばる(遙々・張る張る)「きぬる(来ぬる・着ぬる)」「たび(旅・足袋)」。
「(着)つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。「なれにし」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(つま)し」は、強意の副助詞。「(あれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(き)ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「しぞ」の「し」は、強意の副助詞。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。
関東の方へ親しい友だちだけを誘って気ままな旅に出た。愛知県の三河の八橋まで来ると、川の辺に杜若が綺麗に咲いていた。馬から下りそこに腰を下ろした。そこで、「か・き・つ・ば・た」という五文字を五七五七七の最初に置いて旅の心を詠もうとして詠んだ。
唐衣は着ているうちにくたくたになって体に馴染んでくる。それと同じように慣れ親しんだ妻を京都に残してきたので、妻のことが恋しくなり、よくもこんな遠い所まで遙々やって来たなあとこの旅をしみじみと思うことだ。
これ以上はないと思われるほど、和歌の技巧が凝らされている。業平の本領が遺憾なく発揮されている。さすがである。遊び心に満ちている。歌はこうして楽しむものだと言わんばかりである。まさに言葉遊びの世界である。では、この言葉遊びはどこから来たのか。それは旅からである。旅の遊び心が生み出したものだ。旅は心を解放してくれる。それがこの遊び心に満ちた歌を生み出したのだ。この歌を通して、旅はこんな風に楽しむものだと言いたいのだろう。
ちなみに『伊勢物語』の第九段に同じ話が載っている。『古今和歌集』との関わりの深さを思わずにはいられない。
コメント
まあ、何と遊び心満載の歌でしょう! よくこれだけ考えつくものだと感心してしまいます。歌は、このような言葉遊びとしての楽しみ方もあるのですね。旅の楽しみが何倍にも増しますね。
是非とも見習いたいところですが、、んーなかなか、、言うは易しですが。。
旅の遊び心が言葉遊びの心を生み出し、それが旅をまた楽しいものにします。素敵な循環ですね。
伊勢物語のこの段から4年以上も経ったのですね。先生との知の「旅」、ここまで長いものとなるとは思っておりませんでした。こんなにも長く続けて頂き、尊く有難く思うばかりです。
業平のこの歌、何度読んでみても驚かされます。技巧が凝らし尽くされ、それなのに歌としての味わいが損なわれることがない。言葉を知り尽くし使いこなされている。「日本語」の歴史は長くなったのに、私たちは言葉を尽くして相手に伝える努力をしなくなってきているように思います。言葉の力を信じて、今こそ「歌」そのものも、その文化も受け継いでいけたらと思います。
同感です。私たちは、もっと日本語に誇りを持つべきです。英語はシェークスピアをドイツ語はゲーテを生み出しましたが、日本語は短歌や俳句を生み出しました。こんな言語は他にありません。『古今和歌集』から学んだものを生かしたいですね。