うりむゐんのみこの舎利会に山にのはりてかへりけるに、さくらの花のもとにてよめる 幽仙法師
ことならはきみとまるへくにほはなむかへすははなのうきにやはあらぬ (395)
ことならば君泊まるべくにほはなむ帰すは花の憂きにやはあらぬ
「雲林院の親王が舎利会に山に登って帰って来た時に、桜の花の下で詠んだ 幽仙法師
同じことなら君が泊まるように美しく照り映えてほしい。帰すのは花が嫌なのではないか。」
「(泊まる)べく」は、推量の助動詞「べし」の連用形。「(にほは)なむ」は、願望の終助詞。ここで切れる。以下は倒置になっている。「(憂き)にや」の「に」は、格助詞。「や」は、係助詞で疑問・反語を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あら)ぬ」は、打消意志の助動詞「ず」の連体形。
雲林院の常康親王が仏骨供養の法会のために比叡山に登ってここまで帰ってきた時に、桜の花の下で詠んだ。
同じことなら桜の花は親王様が心惹かれてお泊まりになりたくなるように美しく照り映えて咲いてほしいなあ。親王様をお帰しすることになったら、それは、この桜がお気に召さないということにならないでしょうか。そういうことになりますよね。
393番の歌と発想も文の構造も似ている。次のように別れの責任を桜に転嫁している。雲林院の関係者は誰も皆、親王に雲林院に泊まってほしいと思っている。その気持ちは、親王に十分に伝わっているはずだ。もし、それでも親王がお帰りになるとしたら、もはや我々の責任ではない。桜が悪いのだ。桜がよほどお気に召さないからなのだと。もちろん、これは本音ではない。どうかこの美しい桜を悪者にすることなく、お泊まりくださいと言っているのである。思いをそのまま伝えるのではなく、桜を介して伝えている。そうすることで、帰る帰らないによって自らにも親王にも責任が無いように配慮している。
コメント
まわりくどいと言えばまわりくどいのだけれど、そもそもがこちらから「お願い」ができる相手ではないのですよね。ならば親王にどちらを選ぶにせよ心に負担を強いることなく、失礼に当たらないお誘いをするには、、そうだ、桜、お前がどれ程美しいかは承知の上で力を貸しておくれ。「きみとまるへくにほはなむ」ここでもう一押し「かへすははなのうきにやはあらむ」、桜もそれを受けてお任せあれと言うが如くの見事な咲き様だったのではないでしょうか。親王は桜を楽しみながら疲れを癒やされたことでしょう。
気づかうと言うのはこういう細やかな配慮を言うのでしょう。相手の選択に負担を掛けないというのは、何よりの気づかいですね。見事です。
確かに(393)と似ていますね。泊まるか帰るかは親王様ではなくて桜が決めること。どちらになってもそれは親王様の意志ではないと、気持ちの負担がないように取り計らう。何と粋な心配り、現代でも見習うべきですね。私も心がけてみようと思います。
同感です。平安人に比べると、現代人は無粋ですね。見習うべきことが沢山ありそうです。