《誇張表現》

仁和のみかとみこにおはしましける時に、ふるのたき御覧しにおはしまして、かへりたまひけるによめる 兼芸法し

あかすしてわかるるなみたたきにそふみつまさるとやしもはみるらむ (396)

飽かずして別るる涙滝に添ふ水まさるとや下は見るらむ

「仁和の帝が親王でいらっしゃった時に、布留の滝をご覧にお出ましになってお帰りになった時に詠んだ 兼芸法師
「満たされないで別れる涙が滝に加わる。水か増えると下流は見ているだろうか。」

「(飽か)ずして」の「ず」は、打消意志の助動詞「ず」の連用形。「して」は接続助詞。「添ふ」で切れる。「(水まさると)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(見る)らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形。
光孝天皇がまだ親王でいらっしゃった時に、布留の滝をご覧あそばされて、お帰りになる時に詠んだ。
親王様とこうしてお目に掛かることができてなんとも嬉しく思っております。それなのに。心が十分満たされないままお別れすることになるのは悲しくてなりません。その悲しみで流した涙が滝の水に流れ加わってしまいました。きっと下流では、川の水量が増したと見ているのではないでしょうか。
親王との別れに際して、親王に贈った歌である。作者の名残惜しさ、別れの悲しみを伝えている。それで流した涙で下流の川の水量が増えるはずだと言う。もちろん、そんなことは有り得ない。大嘘だ。しかし、それが嘘であることは、作者も親王も承知している。相手が嘘であることを承知でつく嘘は嘘とは言えない。これを誇張表現と言う。誇張表現は、思いを伝えるための表現手段である。親王は、作者の思いを受け止め、嬉しく思ったに違いない。思いが伝わるのなら、どんなに途方もない誇張表現でも構わない。大事なのは、思いが伝わるかどうかである。

コメント

  1. まりりん より:

    親王様とお別れするのが悲しくて、滝のように滂沱の涙を流した、と。
    大袈裟な誇張表現をした場合、白々しく聞こえるか、あるいはこの歌のように思いが伝わるかは、作者の人柄やお互いの関係性よるところが大きいでしょうか。強い信頼関係を築けていれば、思いは伝わるのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      その通りです。言語表現は、どんな状況で誰が誰に言うかによって、変わってきます。この表現を支えているのは、「作者の人柄」や親王との「強い信頼関係」です。それがこの誇張表現を成立させています。

  2. すいわ より:

    何だか水嵩が増していないか?と下流では不思議に思っていることだろう。誰も別れ難さに私の流した滝の涙が流れに加わったせいとは思うまい。汲み取ってくださるのは、あの滝の素晴らしさに感銘を受けておられた親王様のみ。親王様、ここでのお別れ辛うございます。
    誇張の大きさは悲しさに比例するのですね。あまり大袈裟だと嫌味な印象にとられかねない所ですが、そのすれすれを見誤ることなく、誰もがイメージしやすい表現をしているのですね。

    • 山川 信一 より:

      作者が伝えたいのは、親王との別れの悲しみの大きさです。それが伝えるためにこの誇張表現を生み出しました。その成功不成功を左右するのは、作者と親王との間柄です。つまり、作者と親王との間柄によってこの誇張表現が嫌みにならないのです。歌は詞書とセットになっています。したがって、これが伝えているのは、作者と親王との間柄でもあります。二人は、こんな誇張表現が成り立つ間柄なのです。

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