もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける そせい法し
ふしておもひおきてかそふるよろつよはかみそしるらむわかきみのため (354)
伏して思ひ起きて数ふる万代は神ぞ知るらむ我が君のため
元康の親王の七十の賀の後ろの屏風に詠んで書いた 素性法師
寝て思い起きて数える万代は神が知っているだろう。我が君のために。」
「神ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き、文末を連体形にする。「(知る)らむ」は、現在推量の助動詞の連体形。以下は倒置になっている。
私があなたのために、寝ては思い、起きては数えるあなたの万年の齢は、当然神様もおわかりのはずで、今頃そう取り計らってくださっていることでしょう。それは確かです。
この歌も前の歌と同様賀の歌にしては変わっている。賀の歌にありがちな素材や発想に寄っていないからだ。言い換えれば、形式的な挨拶に堕していない。作者の誠意が伝わってくる。仮名序に次のようにある。「僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。」こうした批判に応えて、奇を衒う表現ではなく、まことを伝えるのに相応しい、抑えた表現を目指したのだろう。
コメント
ここでは、よく見かける 千年 ではなく 万年 ですね。意味や使い方は同じなのでしょうか。確かに素材はシンプル。伏して思い起きて数ふる- 現実的ですし。だからでしょうか、神ぞ知るらむ が印象的です。
「千代」か「万代」かは、音数にも関係がありそうですね。意味は同じですから。「神ぞ知るらむ」は、発想としても言い回しとしても、よくあります。要はどう使うかですね。
352番の貫之の歌から、明らかに歌の雰囲気が変わっていますね。その人の相手に対する素直な思いをその人の等身大の言葉で伝えています。なので現代の私たちにも響きやすい。格高の人へ贈る歌となると、尊大になりがち。お仕着せの、定型という安心から出ない事で本来のお祝いの「こころ」が欠けていってしまう。
そういう意味でこの歌集は大いなる実験と挑戦の場になっているのですね。
素性法師も父を越えようとしているのでしょうか。私も何某の高級ブランド品より一輪の花、お手紙とかの方が嬉しいです。
貫之が『古今和歌集』に込めた思いは、並々ならぬものがあったの相違ありません。その中に「大いなる実験と挑戦の場」であることも含まれるでしょう。
素性法師が父僧正遍昭を意識していることが伝わって来ますね。それが歌から伝わってくる所が面白いですね。