朱雀院のをみなへしあはせによみてたてまつりける みつね
をみなへしふきすきてくるあきかせはめにはみえねとかこそしるけれ (234)
女郎花吹き過ぎてくる秋風は目には見えねど香こそ著けれ
「女郎花を吹き過ぎて来る秋風は目に見えないけれど、香りが実にはっきりしているが・・・。」
「秋風は」の「は」は、主題の提示を表す。その上で「目には」と「香こそ」と対比している。「こそ」は係助詞で強調を表す。係り結びとして働き、文末を連体形にする。次の文に逆接で繋がる。
野には秋風が吹いているらしい。風には色がないので、見た目には、それがここまで来ているかはわからない。しかし、女郎花の香りがするからそれがわかる。秋の野は、女郎花でいっぱいなのだ。
歌合わせの歌であるから、誰にも詠まれていない香りに注目したのだろう。しかし、詠まれていないのには、それなりの訳がある。女郎花の香りは、それほどいいものではないからだ。発酵食品のような匂いがする。だからこそ、部屋の中まで秋風が運んできたのがわかるのだろう。「香こそ著けれ」の後の含みは、そのあたりの微妙な感情を暗示している。やはり、女郎花は、嗅覚ではなく視覚で味わう花である。更に言えば、名前で味わう花である。
この歌は、男が女と交わってきたことが匂いからわかるという経験が背景にある。匂いが残るくらいだから、相当なものである。これも、人事→自然というたとえが用いられている。
コメント
女郎花、見た目の印象がやはり強いです。そういえば、生薬に使われますね。お世辞にも良い匂いではない。良い印象ではない存在感だから濁した言い方なのですね。この時季、香りと言えば金木犀を思い浮かべてしまいますが、金木犀は詠まれていませんね。まだ大陸から入っていなかったのでしょうか?
睦ごとを意識した歌とは思いませんでした。風は通り過ぎて戻る事がない事を思うと、綽名を流布されるばかりの女郎花、本命にはなり得ずフラフラと風に靡く様がなんとも切ないものがあります。
金木犀は江戸時代に渡来したそうです。平安時代にあれば詠まれたことでしょうね。
女郎花ですからやはり女を意識して歌っているはずです。その香となれば、風に靡く女郎花の姿に女が、秋風に男がたとえられているに違いありません。
やはり女郎花、生々しい名前でかわいそうです。可愛らしいお花なのに。
秋風が男で女の匂いをまとうだなんて、ますます生々しいかわいそうな名前です。。。
当時は、女郎花=女という意識が強かったのでしょう。女郎花を語れば、必ず女をイメージしていました。名前とは、罪なものですね。