「盃のそこを捨つる事は、いかが心得たる」と、或人の尋ねさせ給ひしに、「凝当(ぎょうとう)と申し侍るは、そこに凝りたるを捨つるにや候ふらん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道(ぎょだう)なり。流れを残して、口のつきたる所をすすぐなり」とぞ仰せられし。
「『盃の底に残っている酒を捨てることは、どう心得ているか。』と、ある人が私に尋ねあそばされたので、『それを凝当と申しますのは、底に溜まっている濁りを捨てるのではありませんか。』と申しましたところ、『そうではない。魚道である。酒の飲み残しを残して、口のついたところをすすぐのである。』と仰せられた。」
兼好とある身分の高い方との故事についての問答である。そのお方が兼好に盃の底の酒の残りを捨てることを何と言うのか聞いてきた。これは、知らないから聞いているのではなく、兼好の知識を試しているからである。すると、兼好が間違った答えを言ったので、してやったりと正解を述べる。得意満面なのだろう。
では、兼好は負けを認めたのであろうか。それについては、事実のみを書いて、何も言っていない。なぜだろう。そもそも、なぜ兼好はこの話を載せたのだろう。そこから推測すると、兼好には、自分の説が正しいという自信があって、その判定を読者に託したのだろう。その密やかな自慢が伺える。「或人」の名前を伏せているのは、その方に恥をかかせないための配慮だろう。いずれにしても、この話は、故事来歴こだわることの価値を示している。それへのこだわりは、どうでもいいことではない。このようにどこまでもこだわるべきだと言いたいのだ。
なるほど、形骸化して形だけをただ守るよりは、その由来まで調べる方がずっといい。形式主義に陥らないで済む。もっとも、酒を残すかどうかなどはどうでもいいように思える。
コメント
昔のお酒なら白酒で澱が残ったのでしょうね。確かに兼好の言い分の方が納得できます。「或人」は聞きかじりの知識をひけらかしたかったのか?「魚道」、遡上する魚の通り道を塞がないようにするため堰の横に川の流れを残しておく、あれでしょうか?「流れを残す」と「流す為に残す」では目的の方向が逆だし、無理やりこじつけているように思えます。酒席で兼好をからかったのかもしれない。でも兼好は故実に則った作法について譲れないところがあったのでしょう。だから敢えてこんなエピソードを書いたのではないでしょうか。
これは、お酒の席でのやり取りでしょう。おっしゃるようにからかいかも知れませんね。身分の高い人なので、言い返すこともできません。しかし、故実のいわれは譲れない。そこでこう書き記したのでしょうね。