第百四十五段   専門家の一言

 御随身秦重躬、北面の下野入道信願を、「落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ」と言ひけるを、いと真しからず思ひけるに、信願馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神のごとしと人思へり。
 さて、「いかなる相ぞ」と人の問ひければ、「きはめて桃尻にして、沛艾の馬を好みしかば、この相を負せ侍りき。いつかは申し誤りたる」とぞ言ひける。

随身:平安時代、貴人が外出する時に警護として従った近衛府の舎人。
桃尻:鞍によく据わらない形の尻。
沛艾(はいがい)の馬:跳ね上がる癖のある気の荒い馬。

「御随身の秦の重躬が北面の武士の下野の入道信願のことを『落馬する相のある人である。よくよく注意しなさい。』と言ったのを大して当てにならないと思っていたところ、信願が馬から落ちて死んでしまった。その道に長じた人の一言は神のようだと人々は思った。
 それで、『どういう相なのか。』とある人が尋ねたところが、『きはめて桃尻であって、沛艾の馬を好んだので、この相を言いつけました。私がいつ申し誤ったか。私の言うことにいつでも誤りはない。』と言った。」

専門家の言葉は、蔑ろにされることもあれば、神の予言のように扱われることもある。人々は、往々にしてこのような極端な評価を下しがちである。しかし、専門家の言葉は、経験に基づいて合理的に成されている。したがって、なぜそう言うのかをその根拠まで踏み込んで尋ねるべきである。評価するなら、その上でしたらいい。すると、重躬のように、自己を誇ろうする、人間くさい一面まで見えてくることもある。いずれにしても、その実態を見極めることが重要である。
兼好はこう言いたいのだろう。もっともな主張である。なぜそう言うのかまで踏み込むといろいろなことがわかる。表面的な判断は手抜きである。楽をすると、本質が見えてこない。たとえば、重躬はなぜ「相」などという怪しげな言い方をしたのか。それこそ、自分を予言者として、神のように思って欲しかったからではないのか。「いつかは申し誤りたる」という自慢げな言い回しに結びついている。

コメント

  1. すいわ より:

    人ひとり亡くなったというのに「いつかは申し誤りたる」と自分の見立てを誇る辺り、人として欠けていますよね。本当の専門家としての自負があるのなら、最悪の事態を回避してこそでしょうに。事態に関わりのない外野は外野で当たったの外れたのと大袈裟に騒ぐ。無責任なものです。重躬もそんな風に持ち上げられていい気になったのでしょう。「専門家」を名乗る人の言う事には別の意味でも注意しないといけませんね。

    • 山川 信一 より:

      この段は、専門家と大衆に対する二重の批判が読み取れますね。持ち上げる方も方だし、いい気になる方もなる方です。そこには大衆の怠惰と無責任さ、専門家の虚栄心とやはり無責任さがあります。
      さて、コロナを巡っては、どうなんでしょうね?

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