《表現の多様性》

はるのとくすくるをよめる みつね

あつさゆみはるたちしよりとしつきのいるかことくもおもほゆるかな  (127)

梓弓春立ちしより年月の射るがごとくも思ほゆるかな

「春が早く過ぎるのを詠んだ  凡河内躬恒
春が立った日から月日が弓を射るように経ってしまったとも自然に思われることだなあ。」

「梓弓」は枕詞で、弓を「張る」と言うことから同音の「春」を導く。梓は、カバノキ科の落葉高木だと言う。弓に仕立てるのだから、しっかりした逞しい木なのだろう。またそれ故、生命が蘇る春をイメージしたのだろう。「射るがごとく」のたとえは、弓の縁から用いられている。これを縁語と言う。「も」は、係助詞で強調の働きをしている。「思ほゆる」の「ゆる」は、上代の助動詞「ゆ」の連体形。自発を表す。
春が早くも過ぎようとしていることを惜しむ思いを表している。よい季節は短く感じられる。ただし、具体的な事物は何も表現されていない。思いだけが直接表現されている。なるほど、特定の具体物に寄らない、春という季節そのものに対する思いも確かにある。それも春への思いの一つである。
春が早くも過ぎ去ってしまうのは悲しい。春は、長い長い冬を経てようやく至った季節である。これは誰の心にもある感慨である。この歌は、その悲しみを、「梓弓」がなぜ「春」を導くのかを次のように解き明かす形で表している。これまで、「梓弓」がなぜ「春」を導く枕詞なのか、その理由がわからなかったけれど、なるほど春が弓を射るように早く過ぎてしまうからなのだと。貫之は、この、思いの表し方に、この歌の表現のオリジナリティを認めている。

コメント

  1. すいわ より:

    引き絞った弦の緊張が冬の厳しさ。ピンといっぱいに張り詰めた時、春は満ち満ちて、でも手を離した瞬間、矢の速さで行き過ぎていってしまう。春の情景を詠むのでなく、「春」という待ち侘びた時の移ろいをこんな形で表現するとは。貫之が目を止めるのもわかります。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、弓だから春は矢の速さで過ぎていくのですね。『古今和歌集』では、こういう知的な表現が好まれます。貫之は、知性と感性を駆使した表現を求めているようです。

  2. らん より:

    なるほど。
    ビューンと矢が飛んでいくように春も行ってしまうんですね。
    いい季節はすぐに過ぎてしまいます。
    冬は長く感じるけど、自分の好きな春も夏も秋も気がつくと終わってるなと、共感しました。

    • 山川 信一 より:

      らんさんは、夏もお好きなのですね。普通は夏も嫌われていて、秋が来るとほっとするものですが・・・。実は私も夏が好きなのです。
      冬と夏とは、悪役を演じさせられているのかも知れませんね。春と秋のよさが際立つように。

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