「ある人」登場

をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり。それのとしのしはすのはつかあまりひとひのいぬのときにかどです。そのよしいさゝかものにかきつく。あるひと、あがたのよとせいつとせはてゝれいのことゞもみなしをへて、げゆなどとりて、すむたちよりいでてふねにのるべきところへわたる。かれこれしるしらぬおくりす。としごろよくくらべつるひとびとなむわかれがたくおもひてそのひしきりにとかくしつゝのゝしるうちによふけぬ。

傍線部に漢字を当てると次のようになる。
「或人、県の四五年果てて例の事ども皆し終へて、解由など取りて、住む館より出でて舟に乗るべき所へ渡る。」

県の四五年:国司の任期
例の事:国司交代の際の引き継ぎ手続き。
解由:任期満了して交代の際、引き継ぎ完了を証する文書。

問 「あるひと、あがたのよとせいつとせはてゝ」からどんなことがわかるか、答えなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    ある人が国司として都から地方へ派遣され、その任期を終えたところ。「ある人」の事なので書き手自身は国司ではない、ということになる。国司だったであろう紀貫之は「ある人」とすることで、全くの第三者が自分の事を見て書いている風を装って自分が書き手でないとカムフラージュしたのか?

    • 山川 信一 より:

      そのようですね。貫之は自分が書いたとよほど思われたくなかったようです。書いた後も秘蔵し、遺言に直ぐには公開するなと言ったそうです。事実、藤原定家がこの作品を見つけたのは300年後でした。
      それまでは誰もその存在を知りませんでした。「女もしてみんとてするなり」から平安女流文学への影響を言う人がいますが、とんでもありません。

  2. すいわ より:

    封印されていた物語とは思っていませんでした。私もこの作品から影響を受けて創作する女性の書き手が増えたのではないかと思いましたが、そうではないのですね。
    先生、講義の冒頭で『土佐日記』は奇跡的に紀貫之の書いた通りの文章が伝わっていると仰ってました。人の手が加えられる事のないよう意図的に封印したのでしょうか。貫之が書いたもの、だと皆、読みたくなってしまいますよね。だから敢えて名を伏せて、でも、わかる人には誰が書いたかわかる仕掛けをしておく。天才はやる事が違いますね。

    • 山川 信一 より:

      封印したのは、内容的に貫之が書いたことがわかると、いろいろ支障があると考えたからです。人の手が加わるとまでは考えていなかったはずです。
      原本を次々に写すことで、内容が変わっていくことに気付いて、これを本文を確定しようとしたのが定家です。今ある古典の大部分は定家がわかりやすく書き直したものです。
      ただ、その中で『土佐日記』は、件の事情で奇跡的に貫之が書いたままが残っていたのです。定家もその表記通りに写しました。
      私は勝手に『古今和歌集』『伊勢物語』『土佐日記』を貫之の三部作だと思っています。貫之という大天才に触れてみることは、誰にとっても価値のあることでしょう。

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