古今集 巻十七:雑上
題しらす よみ人しらす
わかうへにつゆそおくなるあまのかはとわたるふねのかいのしつくか (863)
我が上に露ぞ置くなる天の河途渡る舟の櫂の雫か
「題知らず 詠み人知らず
私の上に露が置いたらしい。天の河の渡場を渡る舟の櫂の雫だなあ。」
「(露)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(置く)なる」は、助動詞「なり」の連体形で推定を表している。「(雫)か」は、終助詞で詠嘆を表す。
着物が湿ってきた。どうやら私の体の上に露が置いているらしい。この露はどこから来たのだろう。そうか、今日は七夕だった。ならば、この露は彦星が天の河を渡る舟の櫂が落した雫なのだなあ。
作者は、地上から天へと思いを馳せる。それにより七夕の気分を表している。空想を楽しんでいるようだ。
この歌は「この夕べ降り来る雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の塵かも」(『万葉集』巻十2052)を下敷きにしている。翻案、本歌取りとでも言うべき歌である。では、なぜそれを雑歌上の巻頭に載せたのか。『古今和歌集』を前半と後半に分けるなら、雑歌は、前半の物名に当たる。つまり、歌にはここからの歌には、雑多な思い、たとえば、遊び心が含まれる。そして、それにふさわしい巧妙な表現になる。その意味では、ここから『古今和歌集』の本領が発揮される。題材・内容に縛られない知的で自由な遊び心を伴った表現の実験が始まる。この歌は、古歌を下敷きにしてこんな風にも作れる例を示した。それによって、『万葉集』との違い、すなわち、『古今和歌集』の歌の特色を打ち出している。具体的には、「雨」が「露」に「塵」が「雫」になっており、「彦星」が消えている。そして、「なる」という推定の助動詞の使われている。それらにより、優雅で全てを言い尽くさない表現が生み出されている。これが『古今和歌集』が目指す表現だと言うようである。
コメント
「我が上に露ぞ置くなる天の河途渡る舟の櫂の雫か」
満天の星空、天の川を漕ぎ渡る櫂の雫を衣の上に映したように露置いて、その光りがなんとも美しい。それに対して万葉集は
「この夕べ降り来る雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の塵かも」
雨で星空は眺められていないのですね。彦星の逢瀬も困難なものを連想します。古今集、歌がより洗練されています。
863番の歌、前の巻の「仮初めの行き通ひ路とぞ思ひ来し今は限りの門出なりけり」甲斐と櫂、「哀傷歌」からの受け渡しもしているように思えました。
なるほど、「甲斐」から「櫂」へと繋がっていたのですね。『古今和歌集』には、様々な仕掛が懲らされていますね。その知性に少しも気が抜けません。まさに知的エンターテインメントです。「甲斐」から「櫂」だけでなく、「山」から「海」へ、「地」から「天」へ転じていますね。「哀傷歌」の最後の二首には、老人と若者、十分に生きた人生と途上にある人生、恋の達人と恋の未熟者の対照がありました。そういった対照がここでは巻を越えていたのですね。『古今和歌集』を拾い読みするのでは、それに気づくことがありませんね。『古今和歌集』は、続けて読むからこそおもしろいのです。