《人は桜をまねる》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた そせい法し

はなのきもいまはほりうゑしはるたてはうつろふいろにひとならひけり (92)

花の木も今は掘り植ゑじ春立てば移ろふ色に人習ひけり

「花が咲く木ももう植えまい。春になるといつも、咲いた花はたちまち色が変わり散ってゆく。その有様に人が習って心変わりするのだった。」

人がたちまち心変わりするのはなぜだろうと疑問に思っていた。それは桜の花の真似をしているからだとわかる。人は、桜の花がたちまち散るのを見て、がっかりする。しかし、これこそ自然のなせる業なのだと悟る。ならば、人の心がそうであっても当然だろうと思う。人は桜からこのように学んでしまうのだ。こんなことなら、もう桜の木を、わざわざ掘ってまでして、植えることはすまい。植えなければ、きっと人の心変わりも無くなるだろうから。自然と人事との繋がりの発見である。
二句目が字余りになっているけれど、「うゑじ」の「ゑ」の発音がUEで前の「う」とU音が重なるので、許される。「けり」は今まで気づかなかったことに気づいた驚きを表す。

コメント

  1. すいわ より:

    桜の散り際に詠まれたのでしょうけれど、寂しい歌ですね。桜を植えたら楽しめようと庭に置いたのでしょうに。花の盛りには人々が押し寄せ愛で褒めそやす。花時の終わると見ると関心を無くす。隆盛にある時はおこぼれに預かろうと擦り寄ってくる者たちが、ひと度、権勢を失えば潮が引くごとくあっという間に周りから居なくなる。詠み手の実感なのでしょうね。もう、花は植えまい、、桜だけが花ではない、野の花にも華はありますよ、と言ってあげたくなりますね。

    • 山川 信一 より:

      この歌は「春」の部に入っているのですから、人事について言っていますが、それは桜の花が散ることへの思いがどれほどのものかを言う手段になっているのでしょうね。
      もちろん、どちらの思いも本物で、主従はつけがたいのですが・・・。桜が散るのを見るのは、人事の嫌な思いを引き起こすほどの寂しさ、哀しさがあると言うのでしょう。

  2. らん より:

    桜の花が散ってしまい、人ががっかりして寂しく思う姿を見たくないということなのでしょうか。
    桜が永遠に咲いていればみんな変わらず、ずっと笑顔でいてくれるかな。
    でも、そうでもないかもしれませんよね。
    ずっと咲いていたら、桜の美しさに鈍感になってしまうかもしれないなと思いました。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。ずっと咲いていたら、桜は空気みたいになってしまいます。変化こそがその価値を教えてくれます。
      作者もそのことはわかっていると思います。わかっていて、屁理屈をこねています。
      屁理屈は、桜を思う気持ちを表す表現の一つなのです。

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