《同士の死》

きのとものりか身まかりにける時よめる つらゆき

あすしらぬわかみとおもへとくれぬまのけふはひとこそかなしかりけれ (838)

明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ

「紀友則が亡くなった時詠んだ 紀貫之
明日を知らない私の身と思うけれど、暮れない間の今日は人が悲しいことだが・・・。」

「(知ら)ぬ」は、助動詞「ず」の連体形で打消を表す。「(思へ)ど」は、接続助詞で逆接を表す。「(暮れ)ぬ」は、助動詞「ず」の連体形で打消を表す。「(人)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(悲しかり)けれ」は、助動詞「けり」の已然形で詠嘆を表す。
明日には死ぬかもしれない私の身ではあるけれど、命がある間の今日は友則の死が悲しいことだなあ。月並みの言葉だけど、しかし、今はこれ以外の言葉が浮かんでこないのだ。
貫之は、紀友則の死に呆然としている。
『古今和歌集』の選者の一人である紀友則が『古今和歌集』完成前に亡くなってしまったことへの嘆きである。同士であり、大先輩でもある敬愛する友則が亡くなる。この先相談することもできない。貫之の心は千々に乱れる。しかし、それでも歌人として何か歌を作らねばと思う。なのに、気の利いた歌が作れない。それが正直な今の精神状態である。ならば、むしろそれをそのまま歌にすればいいと考えた。かえって、凝った技巧など嘘になる。「我が身と思へど」の字余りも敢えて「我が身なれども」とはしない。「明日」と「今日」という平凡な対照を用いる。「こそ・・・けれ」の係り結びで言い尽くせない思いを表す。こうして、友則の死の前に平常心を失っている様を表している。編集者は、こうした表現のあり方を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    零れ落ちたそのままの言葉。それでも同じ志で歩いて来た同士を歌で送る。
    命はいつ尽きるかなど誰にも分からない。明日は我が身かもしれない。でも明日のことなど考えられないのだ。今、ひたすらにあなたを失ったことが悲しい。
    明日、命があって迎えた「今日」はやはり悲しみが尽きることはないのでしょう。字余りのこの歌、「あの貫之にして」と悲しみの深さが伺い知れます。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』は、歌の可能性を追求した歌集ですね。この歌は、ぎりぎりのところまで技巧を抑えることで思いのほどを表しています。それによって、こんな作り方もあることを示しています。次の忠岑の歌を読むとそれが一層よくわかります。

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