題しらす よみ人しらす
あはれともうしともものをおもふときなどかなみたのいとなかるらむ (805)
あはれとも憂しともものを思ふ時などか涙のいとながるらむ
「題知らず 詠み人知らず
胸がいっぱいでもつらくても恋にもの思いする時、どうして涙が暇なくひどく流れているのだろう。」
「(あはれ)とも(憂し)とも」の「とも」は、接続助詞で「そうであっても」の意を表す。「などか」の「など」は、副詞で疑問を表す。「か」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「いとなかる」は、「いと流る」に「いとな(し)」(暇が無い)掛かっている。「(流る)らむ」は、助動詞「らむ」の連体形で現在推量を表す。
感激してでも悲嘆してでも、終わった恋を振り返り物思いに耽る時は、どうして涙が暇無くこんなにひどく流れているのだろうか。これこそが恋というものなのだなあ。
作者は終わった恋を振り返り、誰に言うこともなく今の思いを歌にした。恋への感慨である。恋には様々な場面があり、それに応じた様々な思いがある。喜びに胸がいっぱいになることも、悲しみにつらくて嫌になることある。ただし、共通して言えるのは、涙が止めどなく流れることだと言う。
前の歌とは、「憂し」繋がりである。この歌の主題そのものは、普遍的であり、殊更物珍しいものではないかも知れない。しかし、歌で大事なのは、それをどう表現するかである。この歌では特に音に工夫がある。歌の調べを楽しんでいるようだ。つまり、「と」「も」「な」音を意識的に多用している。しかも、「な」音は頭韻になっている。編集者は、こうした音楽性を評価したのだろう。
コメント
悲喜交々、豊かな実りを目にして、涼を運んできた雁の初音を耳にして、当たり前に心踊る事もあれば打ち沈む事もある。心あればこそ。涙は溢れて流れる。
数多の人の流した涙のうねりが言の葉の流れとなって滔々と流れる川となる。今まで読んできた、長い長い巻紙に書き留められた歌の数々を思いました。
恋に対してここの場面ではなく、こうして自分がしてきた恋を振り返ることがあります。この歌は、そうした時の感慨なのでしょう。喜びに付け悲しみに付け、恋は涙を流させます。心は涙に繋がっています。これは、考えてみれば不思議です。