《恋心という花》

題しらす 小野小町

いろみえてうつろふものはよのなかのひとのこころのはなにそありける (797)

色見えでうつろふ物は世中の人の心の花にぞありける

「題知らず 小野小町
色が見えないで変わりゆくものは男女の仲の人の心であったのだなあ。」

「(見え)で」は、接続助詞で否定を伴う接続を表す。「(花)にぞ」の「に」は、格助詞で対象を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あり)ける」は、助動詞「けり」の連体形で詠嘆を表す。
草木の花は変わっていく色が目に見える。しかし、変わっていく色が見えないものがあった。それは男女の情愛に咲く、あの人の恋心という花であったのだなあ。
恋心を花にたとえ、恋人の恋心がいつの間にか冷めてしまうことを嘆いている。恋心は花にたとえるべき美しいものである。だから、花故に色褪せるのは仕方がない。それでも、気づかないうちに変わってしまうのは何とも堪えられない。気づけば何とかなったかも知れない。だから、それを嘆く。小町は「色」「うつろふ」「花」の題材がよほどお気に入りだったらしい。同じ題材を使った次の歌がある。「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(春下)「色見えで」の歌は、「花の色は」に続く感慨だろうか。ならば、編集者は『古今和歌集』の歌の関連を考慮したのだろう。つまり、読者には、絶えず全体を意識して読んでほしいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    「絶えず全体を意識して読んでほしい」で思ったのですが、
    『今はとて我が身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり(782)』
    が間に入っての三部作に見えてきました。
    この歌単体では「恋五」に相応しく、しみじみと終わった恋を思い返し嘆いているように見えますが、『今はとて』の歌を受け取って訪れた目の前にいる男の胸に手を当ててこの歌を詠んで聞かせたとしたら?小町ならそれくらいのことはしそう。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、782の歌は、783の返歌で完結してはいますが、そうも読めますね。『古今和歌集』は読者に物語を作らせる歌集ですね。

  2. まりりん より:

    小町お得意の題材で、今回は恋の歌を詠んだのですね。好きな言葉を使って、違う状況を歌う。それはそれで、非凡な事だと思います。
    3部作? なるほど!

    • 山川 信一 より:

      限られた題材を使いこなすというのも一つの方法ですね。覚えておきましょう。
      三部作とも読めますね。『古今和歌集』の歌は貫之ら選者の編集です。それとは別に読者は自由に編集できます。紫式部もいろいろ考えたことでしょう。

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