《天皇の恋》

題しらす よみ人しらす(この歌は、ある人、あめのみかとのあふみのうねめにたまひけるとなむ申す)

あつさゆみひきののつつらすゑつひにわかおもふひとにことのしけけむ (702)

梓弓ひき野の葛末遂に我が思ふ人に言の繁けむ

「題知らず 詠み人知らず(この歌は、或る人が、天皇が近江の采女にお与えになったと言う)
梓弓を引くひき野の蔓草の先のように終いに私の思う人に噂が立つだろう。」

「梓弓」は、「ひき」に掛かる枕詞。「ひき」は、「引き」と「ひき野」(地名)の掛詞。「梓弓ひき野の葛」は、「末」を導く序詞。「(繁け)む」は、推量の助動詞「む」の終止形。
梓弓は、中国では百木の長と尊ばれる木。その木で作った梓弓。その弓の霊験あらたかなしなやかさを感じさせる女。私はそんな女に惹かれてしまった。それは隠しきれるものではない。きっと、ひき野の蔓草の先が次第に広がって行くように、終いには私が思うその人に噂が繁く立つだろうね。
身分を越えた恋である。お側付きの女官に引かれてしまった天皇が噂が立つことを気遣っている。噂を気にして、相手の心が離れてしまうのではないかと恐れているのである。
上の句の「梓弓ひき野の葛」の序詞が凝っている。「梓弓」によって、その女性の雰囲気を表す。「ひき(野)」によって、心惹かれたことを暗示する。「葛」によって、蔓草が伸び広がる様から噂が広がる様をイメージさせる。一方、下の句には、立場上、直接的な表現ができないので、こうした控えめな表現によって、何とかその心を留めようとする思いがよく表れてる。編集者は、こうした表現を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    梓弓のような女に心惹かれてしまった。そんな私の引いた弓から放たれた心の内は矢の如くはやく、葛草のように繁茂して広がる噂となってあなたの耳にも届くだろう。それでもあなたを思わずにいられない。噂が立ってあなたを悩ませることになっても、、。どんなに思っても正妃に迎えられないことは分かっている、それでも思いを留められない。キリキリと引かれる弓の緊張感。立場ある人のままならぬ恋。女も覚悟はしているでしょうけれど、それでも自分を気遣って下さる気持ちが伝わって嬉しく思うのではないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      梓弓は、天皇の張り詰めた心も表しているのでしょうね。それにしても、この場合、妬みもあり非難されるのは采女の方。天皇を悪く言う人はいないでしょう。天皇はそれがわかっているから、このように気遣うのでしょうね。自ら妻を選ぶことが許されない天皇の恋なのでしょう。

  2. まりりん より:

    身分違いの恋の歌が続きますね。身分の高い人とお側付きの女性の間の恋物語は、当時しばしば生まれていたように思います。人って、特に年若い人は、なぜだか近くにいる異性に惹かれますよね。噂が立って保身に一生懸命の人もいれば、この作者のように相手の女性を気遣う人もいる。さすが天皇ほどの人。純粋な心の持ち主ですね。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、作者の立場や思いが巧みに表現されていますね。詞書は、それを想像した人が書いたものでしょう。歌は、物語を想像させますね。

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