《口説くための歌》

なりひらの朝臣の家に侍りける女のもとによみてつかはしける としゆきの朝臣

つれつれのなかめにまさるなみたかはそてのみぬれてあふよしもなし (617)

業平の朝臣の家に侍りける女の元に詠みて遣はしける 敏行の朝臣
徒然のながめに勝る涙河袖のみ濡れて逢ふ由も無し

「業平の朝臣の家に居りました女の元に詠んでやった 敏行の朝臣
鬱陶しい長雨に勝る涙の川で袖が濡れるばかりで逢う方法も無い。」

「ながめ」は、「眺め」と「長雨」の掛詞。「のみ」は、副助詞で限定を表す。
鬱陶しい長雨を眺めては、物思いに耽っていました。もちろん、あなたのことを思ってのことです。すると、長雨にも勝るほど涙が流れて袖がびしょびしょに濡れるばかりになりました。これほど思いが募っているのに、逢う方法も無いのです。
女は業平の親戚か何かで花嫁修業でもしていたのだろう。敏行がこの女に目を付けて口説こうとする。しかし、業平の目が気になったのか、逢う方法も思いつかない。そこでまずは、女の心を捉えようとする。自分の辛さを訴えて、相手の同情心を引き出そうとする。ただし、歌としては、「ながめ」の掛詞、長雨と涙の取り合わせで、内容表現共にやや新鮮味に欠ける。敏行としては、まずはこの程度の歌で女の反応を確かめようとしたのだろう。
詞書と共に創作力を刺激する歌である。『伊勢物語』の百七段の話は、この歌が元になっている。そこでは更に詳しく背景が述べられている。本来、歌は独白ではない。まずは一人の読み手の心を捉えようとして作られるものである。この歌も恋の歌が実際にどう使われるのかを示している。編集者は、その具体性を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    詞書が付くことで具体的な場面設定が出来上がり、より臨場感が増すのですね。言わば「実践編」。贈る相手に合わせて歌の構成をシンプルにしたり凝ったものにしたり。分かりやすい内容にして相手がどんな風に返すかでどの程度の人物か推し量ろうとしているところが面白い。寧ろ間に入る人の反応を見ようとしているようにも思えます。

    • 山川 信一 より:

      恋は駆け引きが重要。当意即妙に対処していなねばなりません。この歌はまさに「実践編」ですね。
      この歌は業平の庇護の元にある女にちょっかいを出しています。業平がどう関わるかを楽しんでいるのかも知れませんね。ただし、『伊勢物語』では、そうは思っていないようですね。

  2. まりりん より:

    まだ恋をしたことがない、殿方から文など貰った事もない少女だったかも知れませんね。からかってみた積もりだったのかも。でも意外に大人で、気の利いた返歌があったのかも…そこから本気の恋が始まったりして…色々想像してしまいます。

    • 山川 信一 より:

      まりりんさんの予想通りです。『伊勢物語』の百七段に載っています。この『国語教室』のバックナンバーにあるので、読んでみてください。

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