題しらす とものり
しきたへのまくらのしたにうみはあれとひとをみるめはおひすそありける (595)
敷き妙の枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞ有りける
「題知らず 友則
枕の下に涙の海はあるけれど、人を見る目は生えてないであるなあ。」
「敷き妙の」は、「枕」の枕詞。「みるめ」は、「海松布」と「見る目」の掛詞。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
あなたに逢えない悲しみに流す涙で枕の下に涙の海ができてしまいました。海ですから、海草の海松布が生えてもよさそうですが、さすがにそれは生えてきません。だからでしょうか、見る目、つまり、あなたにお逢いする機会もありません。
作者は、恋人に逢う機会が無い悲しみをこんな風に表現している。「枕」の「敷妙の」という枕詞を冠しているのは、作者にとって寝ることが特別な営みであることを暗示している。独り寝する夜にこそ、逢えない悲しみが募り、涙も出るのだろう。それを誇張して涙の海ができるほどだと言う。「海」の関連で「海松布」を出し、それを「見る目」に結びつける。こうした自然な流れを作っている。それによって歌を受け取った相手は、自然に作者のペースに乗せられてしまう。
身近な場面を捉えた歌である。枕詞、誇張表現、掛詞が用いられても無理が無い。全体にゆったりとした調べが感じられる。気負いの無さ、自然体、さりげなさといった作者の持ち味が表れている。編集者はこの点を評価したのだろう。
コメント
枕の下に海が出来た。なのに海藻が生えないのだよ(何故だと思う?私がこんなにも辛い思いをしていると言うのに君に会えないからなのだよ)。「ありける」をどう取ろうか、、枕の下なので夢の中で思い人が現れない、と取ろうかと思いましたが、現実的に「会えない」ことを訴えていると捉えた方が良いでしょうか。字余りになっているところも心が引きずられている感じを醸しているようにも思えます。
枕ですから夢も連想させますね。現実でも夢でもでしょうか。字余りの鑑賞はいいですね。「海松布・見る目」が生えてこないことを認めがたい未練たらたらの思いを表したのでしょう。
スマートというか、上手な歌だなぁ〜と思いました。
海は生命の宝庫。だから希望を抱く。きっと素晴らしいことがあるはず。でも、期待したものは見つからなかった。海松布も貴女との逢瀬も。
「生ひず」に、落胆や悲しみが込められていますね。
友則の歌は、完成した理想の姿だったのでしょう。しかし、貫之たちは、それをどう乗り越えていくかを模索し、試みたのでしょう。友則の模倣では歌は進歩しませんから。ここから、他の三人の選者の歌が続きます。