《音の技巧》

題しらす とものり

あつまちのさやのなかやまなかなかになにしかひとをおもひそめけむ (594)

東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひ初めけむ

「題知らず 友則
東路の小夜の中山ではないが、なまじっか何だって人を思い始めたのだろう。」

「東路のさやの中山」は、「なかなかに」を導く序詞。「(初め)けむ」は、過去推量の助動詞「けむ」の連体形。
あなたに出逢えた幸せな巡り合わせをあんなに喜んでいましたのに、恋がこんなに苦しいものとは思ってもいませんでした。恋とは、喜びだけではなかったのですね。恋がこんなに苦しいものと知っていたなら、なまじっか恋などするべきではありませんでした。何だって、あなたに恋してしまったのでしょう。今では、心があなたのことでいっぱいで、苦しくてなりません。
何らかの事情があって、逢えないのだろう。その苦しさを相手に訴えている。その理由は、自分の気持ちを静めるためか、逢ってくれない相手を口説くためか、逢えない言い訳のためか。「題知らず」なので、様々な場面が想像できる歌である。
友則は、四人の選者の中では最年長者である。『古今和歌集』の完成を見ずに亡くなっている。革新的な新しいタイプの歌を作る貫之や忠岑とは違って、この歌は、『万葉集』的なやや古いタイプの歌である。ただし、かなり技巧的な歌ではある。序詞は、言葉遊びのようだ。音韻では「な」音を四回繰り返し、調べを滑らかにしている。また、三十一音中、十四音がア行音である。そして、ア行音は前半に集中している。そのため、前半が明るい印象を与える反面、「人を」以下は暗い印象を与える。音によって、恋の喜びと辛さの両面を象徴している。編集者は、このテクニックを評価したのだろう。
さて、この歌を受け取った相手はどう思うだろうか。凝った表現を自分への思いの深さの表れと受け取るのか、それとも作者の関心が自分より歌にあると受け取るのか、微妙なところではある。

コメント

  1. まりりん より:

    最初にこの歌を読んだ時、言葉遊びの歌かと思いました。なか〜なかなか〜と続いて、とても面白い。一方で、歌の内容自体は失礼だけれど平凡で、色々な題材を用いつつ詠まれている内容。自分がこれを贈られたとしたら、私は捻くれているので嫌味のひとつも返したくなります。

    • 山川 信一 より:

      歌もそうですが、表現は一般に、そのよさがわかる人を選んでいます。人は表現を評価しつつ、表現に評価されています。歌を贈られた女も贈り主の上の立場にいる訳ではありません。表現者と鑑賞者は、対等の関係です。この歌で言えば、一見平凡に見える中で、実は音韻の面で非常に凝っている点を見抜ける人を求めています。三十一音のうちア行音を十四音も使うことは至難の業です。しかも、内容に添っています。私が女なら惚れてしまいます。

  2. すいわ より:

    伊勢物語の東下りの道行を思い起こしました。揚々と旅立ったものの、都育ちには過酷な道程となって行く様がこの恋路と重なります。語感の軽やかな所が恋の始まりの浮き足だった感じを思わせますが、先生の仰る通り「人を思い初めけむ」でリズムが変わって、心の状態変化、苦しさへと反転させている。表現が巧みで歌としては秀逸。でも、心を動かされるかと言うと、、伝わりづらいかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      少し大袈裟に言えば、実用か芸術かという問題がここにはあります。恋歌ですから、相手の心を動かすという実用に適うべきです。しかし、歌としてのよさを追求したいと思う面もあるでしょう。その結果、芸術のための芸術になることもある訳です。時には、自己満足の自閉的な歌になることもあります。しかし、この歌の場合は、恋人はともかく、読み手を忘れている訳ではありません。まりりんさんへのお返事にも書きましたが、読み手が試されています。「あなたにこの歌のよさがわかりますか?」と。

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