題しらす つらゆき
まこもかるよとのさはみつあめふれはつねよりことにまさるわかこひ (587)
真菰苅る淀の沢水雨降れば常より殊に勝る我が恋
「題知らず 貫之
真菰を刈る淀川の沢水は雨が降るといつもより殊に水嵩が勝る。そのようにいつもより特に勝る私の恋心よ。」
「真菰苅る」は、「淀」の枕詞。「真菰苅る淀の沢水雨降れば」は、「常より殊に勝る」を導く序詞。「(降れ)ば」は、接続助詞で恒常的条件を表す。
生え伸びた真菰を苅る季節になりました。淀川の湿地の水は雨が降ると、いつもより水嵩が増してきます。それはまるで今の私の恋心のようです。いつもよりも恋心が募ってなりません。私は淀川の沢の真菰を刈る人のように泥濘にはまって身動きがとれません。
「真菰苅る」は、夏の季語である。季節を秋から夏に転じている。ただ、前の歌とは気象条件繋がりで、前の歌の「風」に対してこの歌は「雨」を題材にしている。真菰を刈る淀川の湿地帯に雨が降り水嵩が勝る様は、その泥濘にはまって身動きがとれない恋を連想させる。この目の付け所に独自性がある。また、長い修飾語を「我が恋」に掛け、体言止めにしている。この表現に新鮮さがある。編集者はこの点を評価したのだろう。
コメント
雨が降ると川の水位が増すと言う至って普通の事を持ち出して来ているけれど、「淀川」の「淀」が流れの停滞感を感じさせ、「雨」が外からの干渉を思わせます。障害が多い恋ほど寧ろ恋心は募るといった事なのでしょうか。
確かに「淀」には「淀む」が掛かっていますね。だからこそ「真菰」を「苅る」のは、「淀の沢水」でなければならないのです。ご指摘もっともです。「障害が多い恋ほど寧ろ恋心は募る」と捉えるのは、物事を前向きに捉えるすいわさんらしい。
淀川に入って真菰を刈る。すると雨が降り始め水嵩が増してきた。このままここに居たら溺れてしまうかも知れない。それがわかっているのに、そのまま動くことが出来ずにいる。理屈ではない、恋の泥沼にはまっていく様子が思い浮かびます。
恋の歌の巻頭の「郭公鳴くや皐月の菖蒲草あやめも知らぬ恋もするかな」もそうですが、恋は泥沼のイメージなのです。一度はまったら抜け出せません。なのに、恋をせずにはいられません。そんな恋の恐ろしさを詠んでいますね。
まりりんさん、すいわさん、今年もありがとうございました。私は、よい生徒に育てられています。来年もよろしくお願いします。
来年は、お二人のようにコメントしてくれる生徒が増えるといいな。
なお、三が日は休講にします。四日から始めます。