題しらす 読人しらす
うきくさのうへはしけれるふちなれやふかきこころをしるひとのなき (538)
浮き草の上は繁れる淵なれや深き心を知る人の無き
「私は浮き草が上には繁っている淵であろうか。私の深い心を知る人が無いことだ。」
「繁れる」の「る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「なれや」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「や」は、疑問の終助詞。ここで切れる。
今の私は、浮き草が水面にびっしり繁っている淵なのかなあ。そんな淵だから、傍目にはそこが淵であるとは思えない。あなたを思う私の深い心はそんな淵にそっくりだ。こんなにあなたを深く思っているのに、あなたを含め誰にも私の深い心知られることがない。それどころか、浮草のように浮ついた心の持ち主とさえ思われているのかも知れない。
作者は、自分の深い心と「浮き草の上は繁れる淵」との類似性を発見した。真実は、往々にして隠されるものである。自然も人事も同じことだ。浮き草が淵を隠すように、諸事情によって、自分の深い心も隠される。だから、この発見は、自分への救いにもなった。こう思えば、納得できるからである。そして同時に恋人への口説きの言葉にもなった。自分の心を可視化して伝えることができるからである。単なる「深き心」と言うよりは、ずっと説得力が増す。
「浮き草の上は繁れる淵」は、山中の川にあるのだろう。前の歌とは、山繋がりである。作者は、その発見を坦々と述べているだけだ。あとは、相手の判断に任せている。押しつけがましさがない。ある種の潔さが感じられる。編集者は、この類似性の発見と共と作者の態度を評価したのだろう。
コメント
表面が覆われてその本来の姿が見えない。淵のように深い私の心の奥底を誰も知りはしないだろう、心を届けたいあなたも。
この歌を受け取って「淵だよ」と知らされると危ないと分かっていても覗き込まずにいられない。そしてどぶんと淵にはまって、もう溺れるしかない。さぁ、どうします?恋を始めるかどうかはあなた次第、、
確かに「淵」というたとえば、恋に溺れる危険性も暗示していますね。しかし、同時に怪しい魅力も感じさせます。恋を仕掛けるには、なかなか巧みなたとえですね。
浮草は、人の心の、第3者からも見える表面的な部分。そしてひとたび浮草をどかせば、そこには深い淵が存在して、それは心の奥深く、他人からはわからない。
本音と建前とか、人の心の二面性を言っているようにも思えます。
人は浮草の方を見てその人を判断することが多いでしょうね。作者はその点を突いています。私の本質を見てくださいと。これを「建前と本音」と捉えるなら、この場合、作者は立場上、あるいは、恋であるために「本音」が見せられないのでしょう。だから、「建前」として振る舞うしかないのですね。