題しらす 読人しらす
はやきせにみるめおひせはわかそてのなみたのかはにうゑましものを (531)
速き瀬にみるめ生ひせば我が袖の涙の河にうゑましものを
「速い流れに海松布が生えたなら、私の袖の涙の河に植えたいのになあ。」
「みるめ」は、「海松布」と「見る目」の掛詞。「生ひせば」の「せ」は、サ変動詞「す」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(うゑ)ましものを」の「まし」は、反実仮想の助動詞「まし」の連体形。「ものを」は終助詞で逆接を含む詠嘆を表す。「・・・のになあ」
もし流れの速い浅瀬に海松布が生えるなどという有り得ないことが起きたとしたら、私の涙でできた袖の河にその海松布を植えるでしょう。それと同じくらいに有り得ないでしょうが、私はあなたに逢う機会(見る目)があったら、その機会を生かせたらなあと願っています。
「せば・・・まし」を使って仮定の話をしている。「海松布」は海草であるから、河には生えない。まして、「速き瀬」なら尚更である。それによって、有り得ないことであることを表している。また、「袖の涙の河」という誇張表現を使っている。これによてって、いかに悲しいかを表している。こうして舞台を整えた上で、逢える機会が無いことを嘆いてみせる。
前の歌とは、河繋がりである。作者は、逢う機会が無いことを海草が浅瀬に生えないことによって表した。そして、「袖の涙の河」である。いずれも、空想の産物である。編集者は、その発想と「せば・・・まし」のスマートな使い方を評価したのだろう。
コメント
「浅瀬の海松布」「袖の涙の河」あり得ないことだらけ。それと、逢う機会がないこととを重ねている。これはもう、逢うことは絶望的。作者の嘆きの程度がわかりますね。
掛詩の使い方がさすがです。
「みるめ」を「海松布」と「見る目」に掛けるのは常套手段だったようです。あとは、どうスマートに処理するかですね。
「我が袖の涙の河」、今泣いて拭っただけならば河にはならない。一体どれだけの間、一体幾すじの涙をこぼし続けたのでしょう。どんなに荒唐無稽な事でも、あなたに逢うことさえ出来るのなら流した涙も無駄にはならないのに。あるはずのない事にも望みを託してしまう。恨みがましくない所を汲んであげたいですね。
こんな歌ならもらった方も共感できそうですね。詠み手は、誇張表現の仕方からすると、男性であるような気はしますが・・・。