題しらす 読人しらす
たねしあれはいはにもまつはおひにけりこひをしこひはあはさらめやは (512)
種しあれば岩にも松は生ひにけり恋をし恋ひば逢はざらめやは
「種があるから岩にも松は生えてしまうことだなあ。恋に恋を重ねたら、逢えないことがあるだろうかなあ。」
「(種)し」は、強意の副助詞。「(あれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(生ひ)にけり」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。ここで切れる。「(恋を)し」は、サ変動詞「す」の連用形。「恋をし恋ひ」は、「恋ふ」を強調した言い方。「(恋ひ)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(逢は)ざらめやは」の「ざら」は、打消の助動詞「ず」の未然形。「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「やは」は、「や」も「は」も終助詞で詠嘆の気持ちを込めた反語を表す。
種があるからこうして岩の上にも松は生え育つことだなあ。この恋をどこまでも恋い通していったなら、それが種となって、逢うという松が生えてこないことがあろうか、そんなはずがない。きっと生える(逢える)に違いない。そうですよね、岩のように固い心のあなたにさえも。
作者は、実際に岩に生えている松を見て、その生命力の強さに感動した。それを自分の恋に置き換える。どこまでも恋し続ければ、きっと逢えるのだと、期待を抱いた。そして、その決意を相手に伝えることで、岩のように固い女性の心を開こうとしている。
上の句は実景、下の句はそれに基づく類推である。または、事実と仮定でもある。編集者は、岩・種・松という着眼点とそこからの類推の独自性を評価したのだろう。
コメント
岩に生えた松を見て、その生命力の強さに勇気と希望を貰ったのですね。この恋も、強く強く思っていればいつか成就するはずだ、と。この前向きさが清々しいです。本当に思いが通じるような気がしてきます。実際には結果はどうだったのか、気になります。
男は前向きの姿勢をアピールしていますね。松と岩を使ったのは、いくら待っても心を岩のように固くして開かない女性への当てつけでしょうか。岩と言われた女性は、どう反応するでしょうね。
種=きっかけさえあれば、およそ植物など育たないであろうと思われる場所にさえあんなに立派な松が育つのだ、ならば私があなたの心に恋を育てることが出来るのではあるまいか?
待つ(松)ばかりでは始まらない、モーションをかけた、というところでしょうか?頑な心(岩)に働きかけ待った末の常緑の松。逢えると良いのですけれど。
ご指摘のように、松には、待つも掛かっていますね。このたとえは、いくら待っても、心を岩のように固くして開かない女性への皮肉でしょう。ただし、露骨にならない程度の。『種」は、きっかけと言うよりは、きっかけになり得る大本(=真心)のことではないでしょうか。
今回の歌はまだ一度も逢えていない状況下で耐え忍ぶことできっと成果を得られるであろう事を自らにも言い聞かせているようなところがありますよね。種=私の真心、どんなに頑な心にも真心を注げば、という事ですね、納得。でも、先生も仰るように相手にしてみると岩に例えられるのはどんなものだろうとも思ってしまいました。
伊勢物語第七十四段の歌、「岩根ふみ重なる山にあらねどもあはぬ日おほく恋ひわたるかな」が一瞬頭をよぎりました。
女の頑なな心には、どんな事情があるのでしょう。確かに、岩に譬えたくなる場合もありそうです。『伊勢物語』第七十四段のような話も書きたくなりますね。しかし、そう言われて心開く女がいるようにも思えません。