題しらす 読人しらす
するかなるたこのうらなみたたぬひはあれともきみをこひぬひはなし (489)
駿河なる田子の浦浪立たぬ日はあれども君を恋ひぬ日は無し
「駿河にある田子の浦に波が立たない日はあるけれども君を恋しく思わない日は無い。」
「(駿河)なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。「なり」の元々の「に+あり」の意。「(立た)ぬ」「(恋ひ)ぬ」は、共に打消の助動詞「ず」の連体形。
歌に詠まれるあの駿河の国の田子の浦だって波が立たない日はあるでしょう。しかし、そんな日があっても、私があなたを恋しく思わない日はありません。
「駿河なる田子の浦」は、『万葉集』の山部赤人の「田子の浦ゆうち出てみればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」に詠まれた有名な場所である。この赤人の歌は、長歌に併せた反歌で、富士山の不変性を前提にその美しさ讃えている。『古今和歌集』のこの歌は、当然赤人の歌を踏まえている。つまり、赤人の歌に歌われた風景の持つ美しさと不変のイメージにあやかろうとしている。そして、自分の恋心はそれを超えるものだと言うのである。これなら、単に「いつまでも変わらず君に恋するよ」と言うよりは、ずっと効果的である。この歌は、たとえのお手本になっている。ちなみに、『古今和歌集』には、陸奥歌として「君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越さなむ」が載っている。「波」と恋心は、伝統的に結びついている。恋心は、繰り返し繰り返し尽きることなく打ち寄せる波のように相手に向かうからだろう。
コメント
なるほど、冒頭に「駿河なる田子の浦」を置くことで、自然と素晴らしい情景を思い浮かべるのですね。舞台は整い、思い人への気持ちを届ける。思いを絶えることなく繰り返し贈り続けられる、そんな歌を受け取った人はさて、どうこの心に応えるのでしょう。
素晴らしい風景を恋心の背景に使う、これは効果的な手段ですね。この歌はそれに成功して、田子の浦と富士山の風光明媚姿姿が作者の心を暗示するようです。
富士山麓を流れる水が流れ込む田子の浦。言外にどっしりと美しい富士山がイメージされます。この景勝地の美しさと女性の美しさを重ね、天変地異が起きても変わらないこの場所と揺るぎない女性への思いを重ねている。何か、覚悟のようなものを感じます。
この景勝地の美しさは、作者の自身の清らかで変わらない心を暗示するだけでなく、女性の美しさも暗示するという指摘に驚きました。私は後者を想定していなかったので。でも、考えてみれば、田子の浦に波が立つとは、女性の作者への恋心かも知れませんね。その上で、たとえあなたが私を忘れても、私は決してそんなことはありませんと言っているようにも思えます。