人の花つみしける所にまかりて、そこなりける人のもとにのちによみてつかはしける 貫之
やまさくらかすみのまよりほのかにもみてしひとこそこひしかりけれ (479)
山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ
「人が花摘みをする所に行って、そこにいた人の許に後で詠んで贈ってやった 貫之
山桜が霞の間からちらりと見えるように見てしまったあなたが恋しいことだが・・・。」
「山桜霞の間より」は、「ほのかに見」の序詞。「見てし」の「見」は上一段活用の動詞「見る」の連用形。「て」は、意志的完了の助動詞「つ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「(人)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にする。後に逆接で繋げる。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形。
山桜が霞の間からちらりと見えています。いい季節になりました。そんな中、花摘みをなさっているあなたの姿もちらりと見てしまいました。美しい人には目が行くものです。その姿が今も忘れられず、恋しく思っています。しかし、あなたに恋してもいいのでしょうか。
前の歌と発想が似ている。前の歌では、女を若草の初々しさにたとえた。初めて恋をするような少女なのだろう。それに対して、この歌は山桜にたとえている。適齢期の美しい女なのだろう。違いは、「のちに(よみてつかはしける)」にある。歌を直ぐには贈っていないのだ。
歌では、女の美しさを讃えつつ「こそ・・・けれ」の係り結びによって、今後自分が取るべき行動を女に問い掛けている。これでは女は返歌せざるを得ないだろう。恋の歌は、自分の思いをただ相手に伝えるだけではいけない。相手の返歌を引き出す必要がある。また、歌を贈る時期も考慮しなければいけない。この歌は、わざと贈る時期をずらしている。つまり、その場で贈っていない。そうすることで、時間が立っても忘れられないこと、自分の思いが本物であることを伝えている。
コメント
詞書の花摘みの場面では二人の距離が近く感じられます。同じ地面に立っている。なのに歌では女を山桜に喩えていますね。遠く高い所を見上げてその美しさを讃えている。何でしょう、この違和感。女が実は身分の高い人でそれとは知らず知り合い、後からその事実を知って、それでも諦められず歌を贈った。この葛藤によるタイムラグがより気持ちの高揚を促しているし、仰る通り、その時間経過の間、思いが持続し続けている印象も与えている。前の歌と対照するように配されているところも計算され尽くしていますね。貫之らしい。
なぜ直ぐに歌を贈らなかったか。その理由を「女が実は身分の高い人」であることに求めるのは無理があります。詞書に「人の花つみしける所にまかりて」とあるからです。「まかりて」は、貴所から卑所に行くことを意味します。「身分の高い人」であれば、「まゐりて」とあるはずだからです。むしろ、身分の低い娘だったのに、それでも、忘れられなかったのでしょう。そう思えば、「山桜」のたとえも納得がいきます。人の手の入った桜ではないのです。
「まかりて」なので、「まさかそんな所に高位のしかも女人がいるはずがないのに」なのだと思いました。なので歌は「よみてつかはしける」なのだ、と。
でも、「山桜」が人の手の入った桜ではない、という読みに、なるほどと思えました。
確かに「つかはす」は、尊敬語です。しかし、詞書では、単に「やる・おくる」の意味で使われています。たとえば、「志賀の山越えに女の多く逢へりけるに読み手てつかはしれる」(春下)とあります。これを根拠には出来ません。また、「そこなりける人」という言い方もそっけありません。高位の人とは思えません。
なるほど、だとすると普通なら(あまりに身分も違うし)心動かされることは無いはずなのに何か心に霞が掛かったようにモヤモヤとした思いに囚われて、それが花摘みの時に見かけた人への「恋心」と貫之が気付いた、と解釈出来ますね。タイムラグにも納得できます。
タイムラグには、様々な含みがありそうです。タイムラグが生じる恋もあるということでしょう。
貴族の間のことですから、どこのお姫様かはわかっているのですよね。
歌を贈るのも、タイミングまで熟慮されてのことなのですね。現代人は見習わなくては。
作者の女性の好みも現れて、興味深いですね。
すいわさんのコメントにも書きましたが、この娘は「どこかのお姫様」ではなさそうです。「そこなりける人」とあるので、たまたま見掛けた娘でしょう。身分違いでも忘れられないのです。