返し よみ人しらす
しるしらぬなにかあやなくわきていはむおもひのみこそしるへなりけれ (477)
知る知らぬ何かあやなく分きて言はむ思ひのみこそ標なりけれ
「返し 詠み人知らず
知る知らないをどうして無闇に分けて言うのだろう。思いだけが導きであったことだ。」
「何か」は、副詞で疑問・反語を表す。「(言は)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。後に逆接で繋げる。「(標)なりけれ」の「なり」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形。
知るとか知らないとか、あなたはどうして意味もなく区別して言うのでしょうか。そんな区別に意味がありますか。人を恋しく思う心の火だけが人と人を逢わせる手引きなのに、あなたといったらどうでしょう。情け有りませんね。
女は、男の「見ずもあらず見もせぬ」を「知る知らぬ」と言い換える。ごちゃごちゃ言うな、要するにこういうことだとまとめてみせたのだ。また、男が用いた「あやなく」を男の優柔不断な態度を非難するために使う。なんで意味の無いことにこだわるのかと男を挑発しているのだ。こうして男をますます本気にさせる。歌の贈答は、恋のキャッチボールである。女は、男が仕掛けた恋を受け入れた。そして、次は男の番だと返して、男が次に何を言ってくるかを心待ちにしている。つまり、女も恋のプロセスを楽しんでいるのだ。
コメント
さぁ、次、貴方はどう出るの?と男の歌に呼応した形で受けて立つのですね。何と知的なゲーム。お互いにこのラリーを続けるだけの機知と歌の素養とが無ければ続きません。歌を返す毎に相手を知り魅了されて行くのでしょう。この熱戦、「引折り」を観ている場合ではありませんね。
「引折り」を見に行くことは、男にとっても女にとって、恋の口実・きっかけ・機会なのでしょう。「引折り」だけでなく、炊いての行事がそうだったに違いありません。恋に勝るイベントはありませんから。
歌はそのための唯一と言ってもいい道具です。知性と教養と誠意をどう伝え合うかが試されます。これなら、歌の技術が磨かれますね。
やはりこういう場合は、女性の方が冷静ですね。(女性が)一枚上のように見受けられると言ってしまうと、業平さんのプライドが傷つくかな? でも、女性の気を引くためにわざと優柔不断なふりをしている? 次にどう切り返すかが、楽しみです。
この歌と前の歌は『伊勢物語』第九十九段に出てきます。詞書の部分もほとんど変わりません。業平は、百戦錬磨の恋の達人です。ここでも、女から恋を進める歌を巧みに引き出しています。前の優柔不断と思える態度もそのためでしょう。恋は業平の思い通りに進んでいます。恋を進めるのも、そのままにするのも業平次第です。どうしたのでしょうね?この先は、読み手が想像することになります。
どこかで聞いたことがあると思ったら『伊勢物語』、そうでした。男がリードして息のあったダンスを踊るように歌を交わし合う。
順番が前後してしまいますが、この二人の後日談が七十六段のエピソードのような気がしておりました。時経て女は登り詰め、男は閑職に。それでも心は変わることなく、、。
第三段~第六段のエピソードが第七十六段につながり、その間に第九十九段が入ると言うのですね。『伊勢物語』は、創造力を膨らませます。
では、業平になったつもりで返してみます。
かのごとくいはむざらましあくるひもゆめのかよいじたちてまつべし
その様なつれないことは言わないで欲しかったのに。私は明日も明後日も、貴女が夢の中で逢って下さるのを待っています。
というつもりなのですが、通じますかね〜?
「かのごとくいはむざらましあくるひもゆめのかよいじたちてまつべし」は、現代語の意味には取りにくいです。「かのごとく」の指示内容がはっきりしません。夢の通い路に誰がなぜ立つのかもよくわかりません。
それでも、相手が返歌したくなる歌という基本は押さえていますね。
やはり分かりにくいですよね。夢の通い路に、女性が男性に逢うために立って待っている、という状況のつもりだったのですが、、んー、難しいです。。勉強して出直します。
まりりんさんのチャレンジ精神は素晴らしいです。その持ち味を大切にしてください。私も見習います。