題しらす 藤原勝臣
しらなみのあとなきかたにゆくふねもかせそたよりのしるへなりける (472)
白浪の跡無き方に行く舟も風ぞ頼りの標なりける
「白波の跡が無い方に行く舟も風が頼りになる導きだったのだな。」
「(風)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(なり)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
白波の跡が無い方に行く舟だって、風が舟を運ぶ頼りになる案内者だったのだなあ。それなのに、私には、その風に当たる噂さえない十分に無い。この恋を一体どうしたらいいのか。どう進んで行ったらいいのか。
恋は、男が女の噂を耳にすることから始まる。恋は想像力の産物であるから、恋心はどんどん募って行く。ところが、どう進んで行ったらいいのかわからない。頼りになる手立てが無いのだ。急に噂が途切れてしまったのだ。自分の恋心だけが取り残されてしまう。作者は、作者は、その状態を「白波」「舟」「風」の暗喩によって表している。まだ舟の方がずっとましだと嘆くしかないと。このたとえも思いの可視化である。この歌は、噂が恋の原動力であることを述べている。
コメント
例えているとしたら、「白波」は恋する心、「舟」は自分自身、「風」は女の噂、でしょうか。
高校の時の古典の授業で(担当は先生ではありませんでしたが、、)、モテる女性の条件は 1)和歌が上手なこと 2)髪が豊かで真っ黒なこと と担当の先生が仰っていました。顔は隠していて見えないし、姿は御簾越しに遠くに座っている姿しか見えないから、容姿端麗でなくて良かったのだとか。噂で恋が始まってしまうことが現代人の感覚からすると理解し難いのですが、当時は簡単に姿を見ることができなかった背景を考えると、まずは噂から始まることは自然なのかも知れませんね。
「舟」と「風」はその通りですが、「白波」は、恋の進め方、恋の道先案内でしょう。何事にも「先達はあらまほしきもの」です。そこで作ったのがこの歌集なのでしょう。これ以降の人々は、『古今和歌集』でしっかり予習することが出来ました。
当時もモテる人の条件は、私もその通りだと思います。当時の人は、現代人とは、モテるための努力の仕方が違います。和歌の力を付けなくてはなりません。これはこれで大変です。容姿を磨くには、素質と努力が要りますが、和歌も同様に素質と努力が必要です。したがって、現代と当時では、別のタイプの人がモテます。まりりんさんは、どちらの努力がしたいですか?
私は、残念ながらどちらの素質にも恵まれていませんが、でもするとしたら両方の努力がしたいです。やはり、今より少しでもマシな方が良いですから。
努力家なのですね。努力家は魅力的です。何が素質かははっきりわかりません。しかし、努力には確かな手応えがあります。努力こそ頼りになります。私もそうします。
まりりんさんは、謙遜していますが、どちらの素質もあるように思えます。言葉は様々なものを伝えますから。
白波の跡のない方は行く?手引きをしてくれる人がいない、という事でしょうか。はなから行き詰まりの恋。風(お目当ての人の噂)さえあれば舟を進めることも出来るのに、帆を張っても風はそよとも吹かない。目的地(彼女)に辿り着けない。手を尽くして愛しい人の情報を集めているでしょうに。時が経てば経つほど理想の彼女像は膨らんで、現実の彼女からかけ離れそう。涙ぐましいですね。でもその痛み、思っている時間こそが大切なのでしょう。当時の恋愛の手順を垣間見るようです
一体どこから恋と言えるのでしょうか。どこから、恋が始まるのでしょうか?この歌もそうですが、恋の始まりを丁寧に捉えています。今ならこんなのは恋じゃないと思える心の状態も丁寧に捉えています。恋の何たるかが学べますね。