をみなへし とものり
あさつゆをわけそほちつつはなみむといまそのやまをみなへしりぬる (438)
朝露を分け濡ちつつ花見むと今その山を皆経知りぬる
「朝露を分け濡れながら花を見ようと今その山をすっかり歩き知ってしまった。」
「そぼちつつ」の「そぼち」は、ぐっしょり濡れること。「つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。「(見)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「へしりぬる」の「へ」は、下二段活用の動詞「ふ(経)」の連用形。「しり」は、四段活用の動詞「しる」の連用形。「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。ここは、連体止めで余韻を持たせ、詠嘆を表している。
朝露がびっしりおりている草を分け入り、ぐっしょり濡れながらこの山の花々を見ようと歩き回った。今はもう、道をすっかり歩き回り、その山を知り尽くしてしまったことだなあ。
前の歌は、題の隠し場所がわかりやすくて物名としては飽き足らなかったのだろう。作者は、「をみなへし」でもう一首作っている。しかし、無理に入れ込んだため、「皆経知りぬる」の言い回しがやや窮屈な感じがするけれど、物名であるから仕方のないところだ。とは言え、秋の山を歩き回る気分はよく伝わってくる。秋の山には様々な花が咲いている。それに心惹かれ、身はぐっしょり濡れるのも厭わず、すっかり見尽くそうと朝から道という道をすべて歩き回る。女郎花もその花々の一つとして、目に浮かんで来る。
俳句には、山ではないけれど「花野」という季語がある。秋は、春とはまた違った沢山の花が咲き、野へ山へと人をいざなう季節である。
コメント
春には春の、秋には秋の、それぞれに咲く花があって、四季を通じて山の景色は違いますよね。
全ての道を歩き回って、山を知り尽くしてしまったとしても、日々山の様子は変わって、全く同じ景色はないのでしょうね。どんなに歩いても、景色を見飽きることは無いのかもしれません。
おっしゃるとおりです。友則さんは、山を知り尽くしたなどと思ってはいけません。同じ景色は無いし、見飽きることもありませんね。
露置く秋の野を逍遥する。あの花、この花とたどり辿って山を満喫する。秋草と戯れるうちに気付けば自分自身もすっかり露に濡れ、秋の一部となっている。密やかに咲く花を探し求める様子と、歌の中に物名を見つけるのがリンクしますね。
有るものを皆へし折りて野分過ぐ
慰めるごと秋草の揺れ
「秋の一部となっている。密やかに咲く花を探し求める様子と、歌の中に物名を見つけるのがリンクしますね。」は言い捉え方ですね。
「有るものを皆へし折りて野分過ぐ慰めるごと秋草の揺れ」は見事です。野分を持ってくるとは!情景が目に浮かんできます。
私は、この場から離れてこんな歌を作ってみました。*秋の日に三国一の女得し男の船出まがうことなし(結婚祝いに)
しかし、これでは仮名遣いが違いますね。「得し」は〈えし〉ですから。そこでもう一首。
*女経し人生をこそ思いやれ険しさならぬその美しさ(女性を讃える)
*女綜し糸にて織れる布なれば肌に優しき着心地ぞする
すいわさんの野分けの歌、素敵です!
押し花を皆へ栞として贈り読書の秋に備えむとせし
先生の一首目に返し。物名入っていませんが。
我が半生酸いも甘いも乗り越えて至った現在(いま)の姿誇らし
まりりんさん、物名見事です。そう入れましたか!これは、昔を振り返る国語の教師の心境ですね。
返し、ありがとうございます。私の歌は、図らずもまりりんさんを讃える歌になっていたのですね。返しの歌からは、まりりんさんの充実した今が伺えて、嬉しくなりました。
一首目は制服の頃のまりりんさん、二首目は卒業され、社会に出て活躍なさる今現在の凛としたお姿が思い浮かびました!そして温かく見守りエールを送り続ける先生。
それにしても物名でこれ程テイストの違った歌が生まれるとは!(私は一首で精一杯です)貫之も楽しんでくれそうですね。
表現を完成させるのは、読み手なのですね。素敵な読みをありがとうございます。
そこで、私も読者になって読めば、二首目はすいわさんの言葉への思いのように思えます。