《反論》

返し(うつせみ) 壬生忠岑

たもとよりはなれてたまをつつまめやこれなむそれとうつせみむかし (425)

袂より離れて玉を包まめやこれなむそれと移せ見むかし

「返し(うつせみ) 壬生忠岑
袂より離れて玉を包めるか。「これがそれだ」と袂に移せ。見ようよ。」

「(包ま)めや」の「め」は、推量の助動詞「む」の已然形。「や」は、反語の終助詞。「なむ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして文末を連体形にする。「移せ」は、四段動詞「移す」の命令形。ここで切れる。「見むかし」の「見」は上一段活用の助動詞「見る」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の連体形。「かし」は念押しの終助詞。
包むと言えば袂で包む以外に何が有ろう。袂以外のもので玉が包めるか、包めはしない。だから、袂に「これがそれだ」と移してほしい。そうしたら見てみようじゃないか。「袖に儚からむや」などと言っていないで、取り敢えずやってみたらどうだ。美は壊れやすい、人生は儚いなどと悟ったようなことを言い、手をこまねいていてはダメだ。できそうにないと思っても、まずやってみるべきだ。
作者は、前の歌の内容に納得がいかず、反論せずにはいられなかった。そこで「移せ見」に題の「うつせみ」を入れて、見事に反論している。「なむ」は、普通、和歌には用いない。強調の係助詞には、「ぞ」が優雅な文体、「なむ」は俗な文体という使い分けがある。しかし、ここでは「なむ」によって、その部分が会話の引用であることを示している。ここに優れた表現力が伺える。言葉は使いようである。

コメント

  1. まりりん より:

    わっ、こんなにストレートに反対意見を言ってくるのですね。昔の日本人らしくない、と思うのは私の先入観でしょうか。お互い遠慮のない間柄だったのでしょうか。
    しっかり「うつせみ」を入れて返しているということは、反論しながらも相手をたてている?

    • 山川 信一 より:

      前の歌の作者である在原滋春は、業平の三男で壬生忠岑と同年代か少し年上と推定されます。滋春は、やや古くさい歌を歌いました。忠岑も『古今和歌集』の選者の一人です。『古今和歌集』は和歌を革新しようとした歌集です。だから、忠岑はこの歌に我慢がならなかったのです。そもそも芸術とは、ありきたりの常識に囚われないことです。常にそれを乗り越えようと試みる営みです。ならば、ここでの忠岑の態度は当然のものです。昔も今もありません。「反論しながらも相手をたてている」のではなく、反論するために「うちせみ」を入れているのです。滋春の歌は、忠岑の歌の引き立て役とも言えそうです。

  2. すいわ より:

    在原滋春の歌は詩的に綺麗に纏めてある感がありますね。返しのこの歌は口語的。歌を読んでみて即時に思う所をそのまま歌の形で返す。ただ情景を映すのでなく、そこには歌詠み自身の実がある。「なむ」のたった二文字でそれを実現させている。伝統という革新を実践したのですね。

    • 山川 信一 より:

      この歌はかなり大胆ですね。歌に「なむ」を詠み込むのですから、挑戦的です。まさに革新こそ芸術の伝統ですね。

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