こしのくにへまかりける人によみてつかはしける 凡河内みつね
よそにのみこひやわたらむしらやまのゆきみるへくもあらぬわかみは (383)
余所にのみ恋ひや渡らむ白山のゆき見るべくもあらぬ我が身は
「北陸の国へ下る人に詠んでやった 凡河内躬恒
余所でばかりあなたを恋い続けるのだろうか。雪を行き見ることができない私は。」
「(恋)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(渡ら)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「白山の」は、地名でもあり、「ゆき(雪)」に懸かる枕詞でもある。「ゆき」は、「雪」と「行き」の掛詞。
北陸の国へ下る人に今の思いを歌にして贈った。
遠く離れるばかりで、これからはあなたのことを恋しく思いながら日々を過ごして行くことになるのでしょうか。北陸の国にある白山の雪を見ることも、そこまで行ってあなたに会うこともできない私の不自由なこの身は。
作者は次のように訴えているのだろう。なるほど、別れはつらい。しかし、別れても会いに行くことはできる。ならば、そうしさえすればいい。そうできないのは思いが足りないからではないのか。あなたにそう思われても仕方がない。しかし、そうではないのだ。自分の意志に反してこの身は自由にならないのだと。そこで、作者は、地名を詠み込み掛詞を使って、この思いを表現している。この思いは決して並大抵なものではないのだと。つまり、歌に技巧を凝らすことで並々ならぬ思いを伝えているのだ。
歌は、言葉の折り紙のようなものか。実用を超えた美しさがある。
コメント
言葉の使い方が絶妙ですね。掛け言葉を駆使したり枕詞に地名を含めたりすれば、より多くの事を言えますね。歌は言葉の折り紙 素敵な表現ですね。本当にそう思います。
ところでこの歌、前の歌と同じ人を詠んでいたりして。一つは友人として、もう一つは恋しく思いを寄せる人に溢れる思いを連想させるように。
だからあんなに駄々を捏ねた?
友だちにもいろんな人がいます。ですから、別れに際しての思いも様々になります。でも、この歌は、同じ人に対する前の歌では収まりきらない思いを詠んだとも思えます。思いには、様々な面がありますから。
彼の人はもうすっかり越の人になっているのですね。詠み人のいる都は「よそ」。となると、会いに行けないままそれなりの時間が経過している。それでも思いは続いている。思いを持ちつつ行けないもどかしさ。「よそ」という言い方、都に限定しないところがむしろ越以外のあらゆる場所にあっても私は思い続けていると言っているようにも取れます。「そんなこと言わずにどうぞお越し下さい」と返信がありそう。
「余所にのみ恋ひや渡らむ」と思うのは、越の国の遠さや自分の事情だけではなく、友の気持ちを測りかねているためで、訪ねて行くのは迷惑ではないかと気遣っているとも考えられます。ならば、「そんなこと言わずにどうぞお越し下さい」という言葉を引き出そうとしているのかも知れませんね。