《甲斐の無い名前》

あひしれりける人のこしのくににまかりて、としへて京にまうてきて又かへりける時によめる 凡河内みつね

かへるやまなにそはありてあるかひはきてもとまらぬなにこそありけれ (382)

帰る山なにぞはありてある甲斐は来ても留まらぬ名にこそありけれ

「親しくしていた人が北陸の国に下って、何年かして京に上って来てまた北陸へ帰った時に詠んだ  凡河内躬恒
かえる山って何だ。かえる山があって、それがある甲斐は京に来ても留まらないという名であったのだなあ。」

「(なに)ぞは」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し「は」は、係助詞で詠嘆の意を表す。係り結びとして働くげれど、ここでは結びが省略されている。ここで切れる。「(止まら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にする。以下に逆接で繋げる。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形。
親しくしていた人が北陸の国に下って寂しい思いをしていたら、数年経って京に帰ってきた。それで再会を喜んでいたところが、何とまた北陸の国に帰って行った。
北陸の地には、「かへる山」という山がある。その「かえる山」って一体何なんだ。「かへる山」があって、それがあるという効果は、都に帰るのではなくて、都に来ても留まらないで、あちらに帰って行くという意味であったのだ。しかし、それは何とも納得がいかない。
「かへる山」は福井県にある山。それに言寄せて、再会の喜びと新たな別離の悲しみを詠んだ。なまじ喜びがあるからかえって、別れの悲しみが強まることもある。作者はその思いを「かへる山」に抗議する形で表した。一種の八つ当たりである。何かを悪者にして、文句を付けずにはいられないのだ。誰しも思い当たる心理だろう。

コメント

  1. まりりん より:

    親しくしていた人が帰京して、久しぶりの再会を喜んでいたのも束の間、さっさと北陸に帰ってしまった。なんだ、折角こっちに帰ってきたと思ったら、とんぼ返りで向こうに帰ってしまった。再会できて飛び上がるほど嬉しかったのに、また別離の悲しみに突き落とされた。なぜだ? かへる山のせいだ!
    帰る山なんて名前の山があるから、さっさと向こうに帰ってしまったのだ(怒)!
    ということでしょうか。
    何だか子供っぽいですね。確かに、気持ちはよく分かります。

  2. すいわ より:

    「かへる山」がこちらは帰ってくるのでなく、折角こちらへ来たというのに、またあちらへ帰る、と言う為の名だったとは。全く糠喜びであったなぁ。
    落胆の程が伺われます。歌自体、「ありてある」「ありけれ」「なこそ」「なにこそ」と同じような音が繰り返されて落ち着きがなく、心の揺れをそのまま反映しているかのようです。

    • 山川 信一 より:

      確かに同じ音が繰り返されています。思うように行かない苛立ちを表しているようにも思えますね。

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