《長寿への願い》

古今集 巻七:賀

題しらす よみ人しらす

わかきみはちよにやちよにさされいしのいはほとなりてこけのむすまて (343)

我が君は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまで

「私のあなたは千年八千年と小石が成長し大岩になって苔が生えるまで長生きしてください。」

「(我)が」は、格助詞で連体格を表す。「の」より思い入れが強いことを表す。
お誕生日おめでとうございます。今日のよき日を迎え、私は心から喜んでおります。あなたは、私の大切な大切な方です。どうか、今のまま千年も八千年も、そう、たとえて言うなら、小さな石が少しずつ少しずつ成長し大きな岩になって、びっしりと苔が生えるくらい限りなく長生きしてくださいませ。
長寿を祝う賀の歌である。この「君」は、天皇に限らない。その人がここまで生きてきたことを祝い、一層の長寿を願っている。「八」という数字が出ているのは、「八」が末広がりの縁起のいい数字だからだろう。小石が成長して大岩になり苔が生えるというたとえは、限りない年数を可視化した表現である。当時その通りに信じられていたかどうかはわからない。むしろ、有り得ないことを言ったと考える方が相応しいだろう。
この歌は、『君が代』の元になっている。しかし、全く同じというわけではない。「君が代」となると、君が治める世の中はという意味になる。つまり、「天皇の代」という意味になる。『君が代』は、「我が君」を「君が代」に替えることで政治色を出したのである。その分、「我が君」にあった、その人個人への愛情が薄れ、思いが漠然としてしまう。

コメント

  1. すいわ より:

    「わがきみは」となるだけでこんなにも印象が変わるのですね。「私の坊や」ではないけれど、「私(だけ)の、たった一人の大切な」というニュアンスがとても強くなる。こんなにも愛情深い歌だったのですね。
    自分としては真剣だったのですが、小学生の時に「岩が小石になるならわかるのだけれど、小石がどうして岩になるのですか?」と質問して「屁理屈を言うな!」と怒られた事があります。今思うと、小さいものが大きく育つことを願っての喩えと、千代に八千代にと同様、敢えて「有り得ない事」を詠うことで厄から遠ざける(逆柱的な)ような考えがあったのではないか、と想像してしまいました。

    • 山川 信一 より:

      『君が代』の思いは、かなり儀礼的ですね。こうなっていたら、貫之は賀の歌の巻頭には据えなかったでしょう。
      子どもの純粋な質問に「屁理屈を言うな!」はないですね。でも、こういう教師が現実には普通にいます。これでは、探究心が育ちません。日本の教育の多くは、疑問を持たない「良い子」を生み出そうとしているのでしょう。

  2. まりりん より:

    『君が代』は、ここから来ているのですね。お恥ずかしながら知りませんでした。国歌の歌詞を「我が君はー」に元に戻すことを提案したくなります。そうすれば、現在のように国歌斉唱に反対する人はいなくなるのでは。。? 「君が代はー」は、現代にそぐわないし、この元歌なら愛情溢れる暖かい歌詞だと思うのです。

    • 山川 信一 より:

      同感です。もっとも、「君が代」でも、普通に「あなたの齢」の意味になることはなります。でも、それでも「我が君」の思いには及びませんね。

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