《吉野の冬》

題しらす 読人しらす

ふるさとはよしののやましちかけれはひとひもみゆきふらぬひはなし(321)

古里は吉野の山し近ければ一日もみ雪降らぬ日は無し

「旧都は吉野の山が近いので、一日も雪が降らない日は無い。」

「(古里)は」は、係助詞で主題の提示を表す。「(山)し」は、強意の副助詞。「(近けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(一日)も」は、係助詞で強意を表す。「(日)は」は、係助詞で限定を表す。つまり、係助詞の「は」が二重に使われており、「(古里)は」で大きく主題を提示した上で、更に「(日)は」と対象を限定している。
旧都の斉明天皇がお造りになった吉野の離宮の辺りは、吉野の山が近いので、冬になると一日だって雪が降らない日は無い。ここ、都とは全く違うのだ。
これは、事実とは異なる誇張された表現である。いくら吉野の離宮が吉野の山に近くても、雪が毎日降るようなことは無い。では、作者はなぜこう言い切ったのか。今は世界遺産にもなっている吉野は、古代から信仰の地であった。そこでは、京の都では有り得ない出来事があると信じられていたのだろう。だから、冬には都とは違ってこんなことも起こるはずだと言うのだ。つまり、この歌は吉野の山への特別の思い入れのほどを表しているのだ。土地土地によってそれぞれの冬があり、それに伴う思いがある。

コメント

  1. まりりん より:

    あり得ないことを、あたかも事実のように堂々と詠んでいる。それが受け入れられる程、吉野山には神秘的で浮世離れした「何か」があるのでしょうか。
    毎日が雪でうんざり ではなく、 毎日雪が降ることを楽しんでいて、その特別感を自慢しているように感じます。

    • 山川 信一 より:

      確かに、ふるさとの冬に「うんざり」しているわけではなく、「その特別感」を誇っている感じがしますね。私は、作者が京にいると読みましたが、「ふるさと」にいてもよさそうですね。

  2. すいわ より:

    「ふらぬひはなし」と言い切っているのですよね。降っているだろう、降っているに違いない、ではなく。かと言って、吉野の里にいて雪の降りしきる中で詠んだという事でもなさそう。そう思うと先生の仰るように、吉野が象徴的な土地で降り止まぬ雪に閉ざされ阻まれ、簡単には近寄れない、畏れ多いものに思えて来ます。
    318番の芒の歌ではないけれど、古い都、きっと廃れたその姿をあらわにしている。それを隠す雪。雪に覆われる事で、かつて栄えた都の印象を蘇らせ、尊いものとして吉野の里を思い出させる効果があるように思いました。

    • 山川 信一 より:

      芒=ふるさと、「雪に覆われる事で、かつて栄えた都の印象を蘇らせ、尊いものとして吉野の里を思い出させる効果がある」。なるほど、雪は古く廃れたものさえ美しく見せますからね。
      作者の位置が難しいですね。まだまだ、考える余地がありますね。

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