冬の歌とてよめる 源むねゆき朝臣
やまさとはふゆそさひしさまさりけるひとめもくさもかれぬとおもへは(315)
山里は冬ぞ寂しさ勝りける人目も草もかれぬと思へば
「冬の歌ということで詠んだ 源宗于朝臣
山里は冬こそが一層寂しいことだ。人目も草もかれてしまうと思うので。」
「冬ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調、係り結びとして働き文末を連体形にする。「勝りける」の「ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。ここで切れる。以下は倒置で、理由を述べている。「かれぬ」の「かれ」は、「離る」と「枯る」の掛詞。「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形で始まりを表す。「思えば」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。
山里が寂しいのはいつものことである。しかし、特に冬こそが秋にも勝って寂しいことを今更ながらに思い知った。なぜなら、これから本格的な冬になったら、ただでさえ滅多に訪ねて来ない人がまったく来なくなるし、心を和ませてくれる草もすっかり枯れてしまうと思うからだからだ。
これは冬の始まりの思いである。これから始まる冬の寂しさを思いやっている。まだ現実に人目も草もかれてはいないのだ。山里に住む作者は、冬になると、寂しさが秋にも勝ることに気が付いた。「勝りけり」とあるのは、秋の寂しさを前提としている。寂しさではなけれど、秋上214に次の歌がある。「山里は秋こそ殊に侘しけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」「冬ぞ寂しさ勝りける」には、「寂しい・侘しいと言えば、秋だと思われがちだけれど、冬こそが」という気持ちが込められている。そして、その理由が「かる」にあることを発見する。「人目」と「草」には、有れば心を和ませ、無ければ寂しさを募らせるという共通点がある。そして、「かる」という言葉で繋がっている。そこで、冬が殊更寂しいのは、山里の寂しさを紛らわせてくれる「人目」と「草」が共に「かる」からだと考えた。冬とは、「かる」季節なのだ。色を失った山里の風景と作者の心とが伝わってくる。
日本語は、多くの他の言語に比べて音韻数が圧倒的に少ない。その数は、100余りである。ちなみに、英語は3000以上ある。そのため、同音異義語が多い。これは、語の聞き分けの効率を悪くする。意味の理解に誤解を生じたり、時間が掛かったりするからだ。(そのため、話し言葉の信頼が薄れ、書き言葉が発達した。)しかし、その一方で、掛詞や洒落などの言葉遊びが発達し、言葉を読み解く楽しみを増やした。そのことで、かえって表現者の思いが伝わり、受容者との結びつきが深くなるという一面もある。言葉によるコミュニケーションは、効率にのみによってなされる訳ではないからだ。
コメント
この歌は百人一首にも収められていますね。
作者は一人でひっそりと山里で暮らしているのでしょうか。冬の山里の、色が無く生命の気配がしない何とも物悲しい歌ですね。北風が吹かなくても、「離る」と「枯る」で体感温度が下がりそうです。
お恥ずかしながら、今し方まで「離る」という言葉を知りませんでした。
日本語には同音異義語が多くあって、その特徴ゆえに和歌や俳句が好まれた。限られた数の文字で感情や思いや情景や、色々ニュアンスを伝えようとする。受ける側も、言外の意味を懸命に詠み取ろうとする。
日本人ははっきり言葉にせず婉曲的に物を言うと、そういう事が 遠回し と、しばしば外国語と比較されて非難されがちですが、そこが日本人の奥ゆかしさで日本文化の素晴らしさだと、今更ながら思います。
「かる」の同音異義語は、「狩る」「借る」「駆る」「枯る」「涸る」「離る」「苅る」「嗄る」などがあります。それでも普通文脈があるので、意味を取り違えることはありません。
「その特徴ゆえに和歌や俳句が好まれた」とも言えますが、その特長を生かしたのが和歌でしょう。俳句はそれほどでも無さそうですけど。
「おもへは」で、まだ起きていない、これからの話だというのに、ぐっと温度感が下がり、目の前で草木がみるみる枯れ萎れて行くイメージが広がります。「かれぬ」に掛けることで寂しさをたたみかける。秋の寂しさは舞台が設定されて、その中に入って行くものなのに対して、冬の寂しさは空っぽの、なのにこちらへ迫ってくる寂しさ。
日本語の音韻数の少なさが独特の言語文化を育てたのですね。言葉に限らず、足らなさを逆手に取って工夫で乗り切るの、得意“でした”よね、日本って。
「冬の寂しさは空っぽの、なのにこちらへ迫ってくる寂しさ。」、共感できます。秋に勝っていますね。
ガソリンが不足すると、アメリカ人はガソリンスタンドに並び、日本人は無くても済む工夫をするそうです。しかし、今ではそういうのが「得意でした」なのですね。本来の姿を思い出してほしいですね。